(2)
水のソーサリエの寮は、火のそれとは違う。
水のソーサリエの特徴というのか孤独を楽しむ者が多いため、個室が多いのだが部屋は狭い。
ファビアンの部屋も独り部屋であり、狭かった。
彼は、部屋に戻ってくると机に向かった。何をする……というわけでもなく、ぼっと考え事をしていた。考え事が趣味のような少年である。だが、その手は机の上にあったフォトフレームを引き寄せていた。
真っ赤な髪をした二人とプラチナブロンドの一人。ファビアンとジャン‐ルイ。そして、ベッドの中にいる少女。
「アガサってアガタとはかなり性格が違うみたいですね。意外ですね」
ファビアンの精霊レインが、もぞもぞとブロンドから顔を出す。
「レイン。話しかけないでくれないか。考え事をしているんだから」
ファビアンの声に、レインは肩をすくめて再び髪の中に潜り込んだ。
しばらくそのまま時間が過ぎた。
ファビアンのブローニュ家とジャン‐ルイのヴァンセンヌ家は、家族ぐるみのつきあいがある。これは、ソーサリエの伝説以来続く長い交流であり、火と水にあって珍しいことでもあった。
ファビアンも物心ついた時からヴァンセンヌ家に遊びに行った。ジャン‐ルイとは腐れ縁なのだ。
そして……。
妹のアガタとは……。
突然、ファビアンは立ち上がり、着替え始めた。
一番白いシャツを出し、ピカピカに磨いた靴を履く。髪の毛を梳かしたので、ブラシに押されてレインが床に落ちた。
「ファ、ファビアン。どこへ行くの?」
専属の精霊でありながら、レインにさえもファビアンの考えは読めない事があった。
「マダム・フルールのところへ」
ファビアンはソーサリエのマントを羽織った。青い裏地が翻る。いきなり部屋を出て行ってしまった。
レインはあわててファビアンを追って、ぎりぎりのところで追いついた。
「あらーっつ! こいつが犯人だなんて、絶対に許せないわーっつ!」
老眼鏡をまるでモエバーのように上げ下げしながら、マダム・フルールは叫んでいた。
この叫び声をあげるのは、読んでいるミステリー小説がもうすぐ読み終わるという儀式でもあり、毎度の事である。
つまり……毎度、マダムの推理は外れるのだ。
理由は簡単。マダム・フルールの頭脳は、ミステリー作家が及ばないほど、定石を逸しすぎているからだ。まあ、突飛ともいう。
学長室の椅子に深々と腰をかけて、水の精霊・火の精霊・土の精霊・風の精霊をかわりがわりに呼び出しては、お茶やらケーキやらを運ばせる。
ソーサリエの学校の学長は、実に気ままで楽しいお仕事なのである。
それでも、一応は仕事である。
突然のノックにマダムは慌てて本を引き出しにしまい込み、格好の悪い眼鏡を外し、コホンとせきをして居住まいを正した。
「どうぞ」
品のある声で返事をすると、もう立派な学長なのである。
ファビアンは、まるで優等生の鏡のような格好と態度で、学長室に入ってきた。
呼び出しをしない生徒がここに来るのは珍しい事で、よほどのお願いがある時だけだった。
「あらら? ファビアン・ブローニュ。いったい何事なのかしら?」
「読書の邪魔をして申し訳ありません」
ファビアンは礼儀正しかったが、相手を立てることはしない。
マダム・フルールは、コホンとせきをした。誰もが知っていることであっても、あからさまに口にするのは御法度である。
「私に会いにきたのかしら? それとも、何か欲しいものがあったのかしら?」
マダムはにっこりと微笑んだ。
優等生であっても、学長が一本取られていてはしめしがつかない。
ファビアンがアガサの資料を盗もうとした事は、未遂で終わっているのであるが彼の汚点でもある。
「欲しいものがあったので、お願いに伺いました」
ファビアンは言った。
意外にあっさり。
マダム・フルールは、目をぱちぱちさせながら。
「私……。もうおばあさんなので、恋人にはなれません」
その一言に、マダムの精霊たちとレインは、床にばたばた……と落ちて倒れた。
だが、ファビアンは平然としていた。
「僕が欲しいのは……アガサ……」
「キャーーーーー!」
今度は突然、マダムが悲鳴を上げた。
よろよろと立ち上がり、飛び上がろうとしていた精霊たちは、再び床に伏してしまった。
「んまあ! ファビアン・デ・ブローニュ! この学校内では、不純異性交際は許されませんことよ!」
さすがにファビアンの顔が歪んだ。
「マダム。読んでいた本は、ミステリーではなく恋愛ものですか?」
「ハードボイルド系ミステリーですわ」
素直に白状するところが、初老マダムの乙女チック単純思考のところである。
「僕が欲しいのは、アガサではなく、アガサの精霊のフレイです」
――水のソーサリエが火の精霊をほしがる。
これは、火の精霊を持つ恋人を持つよりも当然危険なことである。
当然ながら、マダム・フルールは目を白黒させた。
「ファビアン。あなた、勉強しすぎて頭がおかしくなったのですか?」
「ええ、かなり勉強しましたよ」
この部屋に入ってきてから、初めて彼は微笑んだ。
美少年の微笑みは、何か企んでいることがあったとしても、女心を揺さぶるものである。
だが、ファビアンの言葉はマダム・フルールを少しだけ不機嫌にさせた。
「僕は、無のソーサリエになって確かな力を手に入れたい。あなたのように。だから、あなたがなぜ、無のソーサリエになりえたのか、調べたのです」
マダム・フルールは立ち上がった。
そのとたん、部屋のカーテンというカーテンが締まり、ドアには鍵がかかり、学長室の回り十メートル範囲に魔法結界が張られた。つまり、小人さんが出てきて、やれはーほれはーと踊り始めたのである。
丸く結い上げられていたマダムの白髪は爆発した。目が血走って火を噴きそうである。
しかも、部屋中にどどど……と暗雲が立ち込めて、ピカッと稲光が走った。
「なんという子なんでしょう! 女性の過去を暴くなんて、最低ですわ!」
これが……。
本気で怒ったときのマダム・フルールだった。