ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第3章
 夢の超特訓


(5)


 いったい何が起きたの!

 気がつくと、視界が人の顔で覆われていた。
 プラチナの髪、水色の瞳。ファビアンだ。
 アガサはあわてて飛び起きた。もう少しで、おでことおでこがぶつかるほどだったが、わずかな差でファビアンのほうがひいた。
「大丈夫……のようだね」
 冷静な王子様の声。慌てているのは、アガサだけだった。
 あたりを見渡すと、ジャン‐ルイとイシャムがタオルで体を拭いているところだった。濡れていないのはファビアンだけらしい。
 そう。
 はげしい爆風を避けるため、アガサたちは水に飛び込んだ。だが、ファビアンだけは飛び込まなかったのだ。
 アガサは心配になり、水中から出ようとして、ジャン‐ルイに再び水の中に引きずりこまれ、そのせいで水を飲んで溺れかけたのだ。
 そして……。
 急に顔が熱くなってきた。
 よく映画であるではないか。溺れた女の子に男の子がすることは、決まり切っている。それに、先ほどの顔のアップは……。
「きゃーーー! も、も、もしかして、人工呼吸なんかしちゃった?」
「しません」
 あっけない返事がファビアンから戻ってきた。
 その声の状態からして、とても不機嫌なようである。
 変な事を言ってしまったから? と、アガサは焦ったが、実は別の理由からだった。
「すべてはうまく行くはずだったのに。なぜ、ここにフレイがいる?」
 ファビアンの冷たい視線の先に、真っ赤な髪を振り回しながら飛び回っているフレイがいた。

 どうやら、うまくいったと思ったとたん、切り離されていたはずのフレイが合体し、本来の力を取り戻してしまったのだ。
 制御されていた分、余計に大きな力となって爆発を起こしてしまったらしい。
 ファビアンは、すぐに魔法を発動して火の玉を防いだ。
 だが、突然のことだったので、ファビアンの魔法を忘れていたジャン‐ルイは、アガサを抱いて水に飛び込んでしまったのだ。
「まったく。ファビアンを誘った意味がありませんよ」
 などと、珍しくバーンに説教をされていた。
「まぁまぁ、いいから。バーンちゃん。焚き火・焚き火」
 ちょっと無口になったジャン‐ルイの変わりに、イシャムがもみ手して、バーンにお願いした。
 ぱっとおきた焚き火。
 アガサは、にらみ合っているフレイとファビアンの横をすり抜けて、焚き火にあたった。多毛症の髪を絞ると、じゃーっと水が落ち、ついでにフナが一匹出てきた。
「網みたい」
 イシャムの精霊ジンが感心して褒めたが、アガサはそれよりもフレイのことが気になっていた。

 フレイのほうは、天敵ともいえる少年から一本取って上機嫌だった。
 いたずらっぽい微笑みを浮かべると、宙返りしてみせた。
「精霊いじめしか思い浮かばない冷酷非道人に、成功の文字はないぜ」
 ファビアンの眉がぴくりと動いた。
「僕は、アガサが退学にならないよう、協力しているつもりだったけれど。どうやら、不要のようだね」
「そ、そ、そんなことないです! お、お願いします!」
 声を張り上げたのは、フレイではなくアガサのほうだった。
「ねーさん、こんなヤツの協力なんて、何にもならないぜ。おいら、また切られるのはごめんだし、水を被るのだった嫌だからな」
 フレイがアガサの頭の上で怒鳴った。着地しないのは、髪の毛が濡れているからである。
 しかし、アガサは両手でパチン! と、フレイを挟み込んでしまった。
(む、むがっつ……! ね、ねーさん!)
(うるさい! ここが生きるか死ぬかの瀬戸際じゃない!)
(ちがうだろー! どうせ、ファビアンと話がしたいだけで……むぎゅ!)
 フレイを完全にむんずと押さえ込むと、アガサは深々と頭を下げた。
「お願いです! フレイはどうにか言う事をきかせますから、助けてください!」

 頭を下げたまま、時間が過ぎた。
 ものすごい長い時間に感じたが……。

 突然、手に手の感触を感じた。
 かすかな薔薇の香り。
 そっと顔をあげると、うつむいたファビアンの顔が見えた。
「君には……無理だ。ソーサリエじゃないから」
 彼は、握りしめられたアガサの指をひとつひとつ開いていく。指の間から、フレイの姿が現れた。
「……したいだけで、おいらを利用しているだけだ! ぎゃーぎゃー!」
 怒鳴り続けるフレイを無視して、ファビアンは言葉を続けた。
「君には、この精霊の力を抑えることも、いう通りにさせることも出来ない。黙らせることだって出来ないんだよ」
 その声は、妙に優しく聞こえた。だから、アガサは余計に惨めになった。
「で、出来るよ! 努力すれば……。がんばれば何でも出来るようになるって……」
「おいら、こいつに頭下げるのはやーだからな!」
 アガサが言っているふちで、すでにフレイは怒り心頭。怒鳴りまくっているのだ。
 握りしめ、押さえ込んだら、一時的にフレイを無口にできるかもしれない。でも、自由にしてあげたら……フレイはフレイ。アガサはアガサだ。
 フレイはアガサの心を読めるけれど、アガサはフレイをどうとも出来ないのだ。
 ファビアンの手が、アガサの最後の指――小指を解きほどくと、フレイはアガサの手の中から飛び立ってしまった。
 アガサは虚しい気持ちでその姿を目で追った。途中で、ファビアンと目が合った。
「諦めることだって悪いことじゃない。出来ないことは、誰にだってあるから。出来ないことで落ち込んだりしないで……」

 ぽんと肩に手。ほんの一瞬だ。
 きゅん……と胸が苦しくなる。
 ――本当はこの人……。優しいんじゃないのかな?

「それじゃあ」
 ファビアンは少しだけ微笑んで、アガサに別れを告げた。
 何も言えないアガサを残して、彼は去ってしまった。