(5)
いったい何が起きたの!
気がつくと、視界が人の顔で覆われていた。
プラチナの髪、水色の瞳。ファビアンだ。
アガサはあわてて飛び起きた。もう少しで、おでことおでこがぶつかるほどだったが、わずかな差でファビアンのほうがひいた。
「大丈夫……のようだね」
冷静な王子様の声。慌てているのは、アガサだけだった。
あたりを見渡すと、ジャン‐ルイとイシャムがタオルで体を拭いているところだった。濡れていないのはファビアンだけらしい。
そう。
はげしい爆風を避けるため、アガサたちは水に飛び込んだ。だが、ファビアンだけは飛び込まなかったのだ。
アガサは心配になり、水中から出ようとして、ジャン‐ルイに再び水の中に引きずりこまれ、そのせいで水を飲んで溺れかけたのだ。
そして……。
急に顔が熱くなってきた。
よく映画であるではないか。溺れた女の子に男の子がすることは、決まり切っている。それに、先ほどの顔のアップは……。
「きゃーーー! も、も、もしかして、人工呼吸なんかしちゃった?」
「しません」
あっけない返事がファビアンから戻ってきた。
その声の状態からして、とても不機嫌なようである。
変な事を言ってしまったから? と、アガサは焦ったが、実は別の理由からだった。
「すべてはうまく行くはずだったのに。なぜ、ここにフレイがいる?」
ファビアンの冷たい視線の先に、真っ赤な髪を振り回しながら飛び回っているフレイがいた。
どうやら、うまくいったと思ったとたん、切り離されていたはずのフレイが合体し、本来の力を取り戻してしまったのだ。
制御されていた分、余計に大きな力となって爆発を起こしてしまったらしい。
ファビアンは、すぐに魔法を発動して火の玉を防いだ。
だが、突然のことだったので、ファビアンの魔法を忘れていたジャン‐ルイは、アガサを抱いて水に飛び込んでしまったのだ。
「まったく。ファビアンを誘った意味がありませんよ」
などと、珍しくバーンに説教をされていた。
「まぁまぁ、いいから。バーンちゃん。焚き火・焚き火」
ちょっと無口になったジャン‐ルイの変わりに、イシャムがもみ手して、バーンにお願いした。
ぱっとおきた焚き火。
アガサは、にらみ合っているフレイとファビアンの横をすり抜けて、焚き火にあたった。多毛症の髪を絞ると、じゃーっと水が落ち、ついでにフナが一匹出てきた。
「網みたい」
イシャムの精霊ジンが感心して褒めたが、アガサはそれよりもフレイのことが気になっていた。
フレイのほうは、天敵ともいえる少年から一本取って上機嫌だった。
いたずらっぽい微笑みを浮かべると、宙返りしてみせた。
「精霊いじめしか思い浮かばない冷酷非道人に、成功の文字はないぜ」
ファビアンの眉がぴくりと動いた。
「僕は、アガサが退学にならないよう、協力しているつもりだったけれど。どうやら、不要のようだね」
「そ、そ、そんなことないです! お、お願いします!」
声を張り上げたのは、フレイではなくアガサのほうだった。
「ねーさん、こんなヤツの協力なんて、何にもならないぜ。おいら、また切られるのはごめんだし、水を被るのだった嫌だからな」
フレイがアガサの頭の上で怒鳴った。着地しないのは、髪の毛が濡れているからである。
しかし、アガサは両手でパチン! と、フレイを挟み込んでしまった。
(む、むがっつ……! ね、ねーさん!)
(うるさい! ここが生きるか死ぬかの瀬戸際じゃない!)
(ちがうだろー! どうせ、ファビアンと話がしたいだけで……むぎゅ!)
フレイを完全にむんずと押さえ込むと、アガサは深々と頭を下げた。
「お願いです! フレイはどうにか言う事をきかせますから、助けてください!」
頭を下げたまま、時間が過ぎた。
ものすごい長い時間に感じたが……。
突然、手に手の感触を感じた。
かすかな薔薇の香り。
そっと顔をあげると、うつむいたファビアンの顔が見えた。
「君には……無理だ。ソーサリエじゃないから」
彼は、握りしめられたアガサの指をひとつひとつ開いていく。指の間から、フレイの姿が現れた。
「……したいだけで、おいらを利用しているだけだ! ぎゃーぎゃー!」
怒鳴り続けるフレイを無視して、ファビアンは言葉を続けた。
「君には、この精霊の力を抑えることも、いう通りにさせることも出来ない。黙らせることだって出来ないんだよ」
その声は、妙に優しく聞こえた。だから、アガサは余計に惨めになった。
「で、出来るよ! 努力すれば……。がんばれば何でも出来るようになるって……」
「おいら、こいつに頭下げるのはやーだからな!」
アガサが言っているふちで、すでにフレイは怒り心頭。怒鳴りまくっているのだ。
握りしめ、押さえ込んだら、一時的にフレイを無口にできるかもしれない。でも、自由にしてあげたら……フレイはフレイ。アガサはアガサだ。
フレイはアガサの心を読めるけれど、アガサはフレイをどうとも出来ないのだ。
ファビアンの手が、アガサの最後の指――小指を解きほどくと、フレイはアガサの手の中から飛び立ってしまった。
アガサは虚しい気持ちでその姿を目で追った。途中で、ファビアンと目が合った。
「諦めることだって悪いことじゃない。出来ないことは、誰にだってあるから。出来ないことで落ち込んだりしないで……」
ぽんと肩に手。ほんの一瞬だ。
きゅん……と胸が苦しくなる。
――本当はこの人……。優しいんじゃないのかな?
「それじゃあ」
ファビアンは少しだけ微笑んで、アガサに別れを告げた。
何も言えないアガサを残して、彼は去ってしまった。