ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第1章 虹の雲と闇のトンネル


(3)

 何もない闇。
 これほど心細いものはない。
 アガサは、フレイがいなくなってわずか25秒で、自分の発言に後悔しだした。とはいえ、すぐにアイツを呼び戻して言いなりになるのはしゃくに障る。
「死んでも」という言葉を撤回するにはそれなりの理由が必要だ。少なくても29秒で撤回するほど、アガサは根性なしではない。ただ、今ちょうど30秒経過したところだから、そろそろ許されるかもしれない。
 アガサは、自分の立場を保てるように、しかも精霊が気をよくして戻ってきてくれる方法を考え始めていた。
 フレイの話では、精霊使いというほどなのだから、たぶん精霊とソーサリエの関係は、ソーサリエのほうが主人なのだろう。
 頭ごなしに命令すれば、戻ってきてくれるかもしれない。でも、それではあまりにも自分がひどく悪人っぽくて落ち込んでしまう。
「ふん、あんなヤツ!」
 寂しさを拭い去るように、アガサは叫んだ。
 だいたい、12年間も一緒にいたくせに、ご主人様の名前を憶えられないというのは、精霊は頭が空なのかもしれない。
 自分のほうは、一発で精霊の名前を覚えた……。そう思いながら、アガサは膝を抱えて考え込んだ。
 だって……。
 小さな頃の自分の姿が浮かんでくる。

 ある時はベッドの中。
 ある時は食事中。
 ある時は……気持ちのいい草原の真っ只中で……。

「ねえ、あなたはだあれ? だあれなの?」
 アガサはいつだって精霊に話しかけていた。彼は一度だって答えてくれない。そして、いつもアガサの周りを飛び回るだけだ。
「あなたの名前を知りたいの。アガサ、あなたのお友達になりたいの」
 何度も何度も話しかけたのに、一度だって返事がない。
 空気に向かって話しかける奇妙な子供として、アガサは大人たちに変な子供のレッテルを貼られてしまった。母が、それを嫌がってお仕置きに屋根裏に閉じ込めた時、アガサはいっぱい泣いたのだ。
 それでも精霊は、アガサの頭上を飛ぶだけで、ただの一度も慰めてはくれなかった。
 それを……。
「今更何さ! 話しかけていたですって? 願いを聞き入れたですって? フレイのバカ!」
 そう叫んで、アガサは再び涙を流した。

 私……。他の人とは違うと思っていた。
 やはり、ソーサリエ――精霊使いなんだろうか?
 では、今までのアガサはいったいどうなっちゃうんだろう?

 そうアガサが思ったときだ。
 突然、目の前が開けた。
 お葬式の鐘の音が、小麦畑に鳴響く。
 珍しいほどの晴れ渡った空の下、小さな教会に人々が集まる。皆、それぞれに黒い服を着ていた。
 母も父も姉も妹も……。そして、髪を真っ赤に染めた兄もやってきた。
 厳かに、神父さんの声が響く。人々が花を捧げている。
 でも……。
 棺の中で花に囲まれたかわいそうなアガサは、鼻のボタンが無くなってしまった、こげた毛むくじゃらの、耳が片方焼け落ちた状態――実は熊のぬいぐるみなのだ。
「アガサ、どうか空の上で安らかに……」
 そういって、母がもげてしまった熊の鼻にキスをする。
「おまえの髪の色って、いかしてたよな」
 兄が頭を撫でている。
 アガサは泣いた。
 悲しくて……そして、あまりにも滑稽で。
「それは私じゃないってば!」
 空の上から叫んでみても、誰も何も聞こえてはいない。
 今までの変人のアガサだって、それなりに人に愛されていたことはわかったし、悼んでくれるのはうれしいのだけれど。
「それは熊のぬいぐるみだってば!」
 もう、笑い泣きしかない。

 はっと目が覚めた。
 やはり、闇の世界である。目を開けているのか閉じているのかもわからない闇だ。
 少し思い出した。
 火の中で、アガサは熱さを感じなかった。なぜなら……パジャマを着ていたはずのアガサは、窓辺にたった時には、すでに毛むくじゃらの手をしていた。窓に手をかけた時は、まだ、女の子の手だったのに。
 心はアガサのままだったけれど、体は熊のぬいぐるみになっていたのだ。そのことを不思議に思うゆとりは、まったくなかった。
 本当のアガサの体は、フレイの腕の中にすでにあったのだ。ただ、心はまだ熊のぬいぐるみにあったのかも知れないけれど。
 フレイは、どのような方法かわからないが、炎の渦巻く中でアガサの体を守っていた。おかげでアガサの体は焼け死ぬどころか、ひとつの火傷すらない。
 そして、燃え盛る廊下を渡り、暖炉に飛び込み、煙突を通って空に出た。アガサの心が戻ってきたのは、ぬいぐるみが地面に叩きつけられるほんの少し前だったのである。

 フレイがいなかったら、アガサという少女はやはり死んでいた。
 フレイという精霊がいたから、アガサは生き残ったのだ。
 
「私、やっぱり前に進むしかない……」
 アガサは急に思い立った。
 もしも本当に、自分が精霊使いだったとしたら、ソーサリエとして精霊と共に生きてゆくしかないんだ。
 それが本来の私なんだ。
 くよくよ泣いてなんかいられない。
「フレイ! ごめん! 戻ってきて!」
 アガサは、大きな声で叫んだ。
「あいよ!」
 答えはすぐに戻ってきた。
 なんと、目の前にフレイはいた。
「ど、ど、どこにいたのよ!」
「ねーさんの目の前」
 ずっとくよくよしていた様子を、この精霊は見ていたに違いない。
「で、でも、どうやって姿を消していたのよ?」
 真っ赤になりながら、アガサは叫んだ。
「ここは闇しかない世界だから、おいらが目をつぶれば真っ暗になるのさ」
 フレイは、悪戯っぽく瞬きをした。
 一瞬、精霊の姿は見えなくなったが、彼の目が開いたとたん、姿も再び現れた。
「光がないってことは、闇があるってことなんだ。おいらの火があるうちは、ここは闇じゃないけれど、目を閉じれば闇しかない」
 フレイの瞳は、ゆらりと炎が燃えているようにも見える。
 とはいえ、アガサにはさっぱりその説明がわからなかった。