(4)
緊急医療センターは、中央エリアでも特殊な空間である。
一万年前のソーサリエ文明の多様性を示すかのような、ガラス張りの美しいロビーを持つ。
自然光が差し込み、病人がくつろげるような椅子やベンチがあり、観葉植物がたくさん並んでいる。一瞬、温室か? と思えるような、緑の多さである。
窓際の席に、ファビアンは足を組んで座っていた。
ぼんやりと外を見ながら、何やら考え込んでいる。その髪に、いつもはまとわりついているレインの姿はない。
そう。この場所は、精霊持ち込み厳禁の空間なのだ。
「お待たせ!」
少し上機嫌のジャン‐ルイが、コーヒーを運んできた。
ちょっとだけこぼして熱そうだった。
しかし、そんなことよりもこれから聞く話が待ち遠しいらしい。
ファビアンは苦笑した。
それは、打ち明けなければいけない秘密のせいではない。
この話が終わる頃に、きっとジャン‐ルイの機嫌が悪くなるだろうことを予測しての事だった。
もとより、ファビアンには、秘密を打ち明けるつもりはなかった。
ジャン‐ルイにも……。ではなく、彼だから、である。
ファビアンにとって、アガサと自分の間にある秘密は、誰にも知られたくないことだった。
うっかりジャン‐ルイの前で、アガサの本当の名前を呼んでしまったのは、最大のミスだった。
指摘されて、もうどうにもならないか? とも思った。
すっとぼけていられるほど、ジャン‐ルイはいい加減を許さない。
彼が、アガサを妹のようにかわいがっているとなれば、黙っていて許してくれるとは思えない。
だから……。
ファビアンは時間稼ぎをしたのだ。
ロビーまでの移動時間、ジャン‐ルイがコーヒーを運んでくるまでの時間。
それだけ考える時間があれば、ファビアンには充分だった。
ジャン‐ルイが、コーヒーにミルクと砂糖を入れた。
「さて。じゃあ、おしえてもらおうかな?」
彼は、まるでゆとり……とでも言うように、コーヒーに口をつけた。
「たしかに、僕はアガサを知っていた。初めて会ったわけでもない」
ミルクを入れずに、砂糖だけ。ファビアンは、ゆっくりとスプーンを回した。
ジャン‐ルイが、少しだけ身を乗り出してくる。
――いつ? どこで? どうして?
言葉にしなくても、顔に書いてあった。
ファビアンは、ゆっくりとスプーンを置いた。
「アガサ・ブラウン。十二歳。イギリス出身。専属の火の精霊はフレイ。赤毛、赤茶の瞳。家族構成は、両親と兄、姉、妹……」
まるで履歴書を読むように、ファビアンは言った。
ジャン‐ルイの顔が、やや肩すかしをくらったような表情に変わった。
「な、なんだい? それは?」
「アガサのプロフィールだよ。うっかり見てしまったんだ」
「プロフィール? 生徒の資料なんて、見れるはずがない」
ジャン‐ルイは疑わしそうに言った。
ファビアンは、コーヒーを一口飲んで、ふっとため息をついた。
「確かにね。普通はできない。ところが、アガサがこの学校に来た日、僕は悪い事をやらかしていて、学長室に呼び出されていた」
それは、嘘偽りのない事実である。
ファビアンは、あの日、学長室でマダム・フルールからお叱りの言葉を受けていた。そして、その帰り……ドアの前で、アガサと出会ったのだから。
「ばたばたしていたので、ちらりと机の上にあった資料を見てしまった。そこには 【ソーサリエとしての血筋になく、入学を不許可とするべき】とあった。だから、僕はものすごく興味深く思って、彼女のプロフィールを全部見てしまったっていうわけ」
「……それだけ?」
「その時、アガサにも会った。ああ、この子か……と思った」
「それだけ?」
「それだけだよ」
ジャン‐ルイは、腕を組んでうーむ……と唸った。
ミルク入りのコーヒーは減らなかった。
「本当にそれだけ? なら、どうして秘密にする?」
「見ちゃいけないものを覗き見したことを、どうして吹聴する必要がある?」
ふたたびジャン‐ルイは唸った。
ファビアンは、コーヒーを飲んでいる。
「……でも、それだけとは思えない。なら、君は何でマダムの呼び出しを受けたんだ?」
ファビアンは楽しそうに笑った。
「おいおい、よしてくれよ。それまでも言えっていうのかい?」
「ああ、優等生の君が、マダム・フルール直々の呼び出しを食らうなんて、信じられないからね」
コーヒーの残りを、ファビアンはすべて飲み干した。
「僕が優等生? ハグレ地まで飛ぶ校則違反をいとも簡単にやってのけるのに? 君は僕を買いかぶりすぎだよ」
「……」
ついにジャン‐ルイの追求の言葉が途切れた。
「じゃあ、コーヒーごちそうさま。また授業で」
ファビアンは席を立った。
納得がいかないというジャン‐ルイの視線が絡み付く。
ファビアンが三歩歩いたときだった。
ジャン‐ルイの声が、ファビアンの背中に突き刺さった。
「おい、待てよ」
ファビアンは足を止めた。
ミルクと砂糖が入ったコーヒーは、ほとんど減っていない。だが、ジャン‐ルイも立ち上がっていた。
ジャン‐ルイが納得していないのはわかっている。でも、これ以上追求する糸口もないはずだ。
「アガタの訓練は、水曜日にしているから。約束を忘れるなよ」
振り向いたファビアンの顔には、笑顔が浮かんでいた。
そして彼は、指を軽く額に当て、ウインクしてみせた。