ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第3章
 救急医療センター


(4)


 緊急医療センターは、中央エリアでも特殊な空間である。
 一万年前のソーサリエ文明の多様性を示すかのような、ガラス張りの美しいロビーを持つ。
 自然光が差し込み、病人がくつろげるような椅子やベンチがあり、観葉植物がたくさん並んでいる。一瞬、温室か? と思えるような、緑の多さである。
 窓際の席に、ファビアンは足を組んで座っていた。
 ぼんやりと外を見ながら、何やら考え込んでいる。その髪に、いつもはまとわりついているレインの姿はない。
 そう。この場所は、精霊持ち込み厳禁の空間なのだ。

「お待たせ!」
 少し上機嫌のジャン‐ルイが、コーヒーを運んできた。
 ちょっとだけこぼして熱そうだった。
 しかし、そんなことよりもこれから聞く話が待ち遠しいらしい。
 ファビアンは苦笑した。
 それは、打ち明けなければいけない秘密のせいではない。
 この話が終わる頃に、きっとジャン‐ルイの機嫌が悪くなるだろうことを予測しての事だった。

 もとより、ファビアンには、秘密を打ち明けるつもりはなかった。
 ジャン‐ルイにも……。ではなく、彼だから、である。
 ファビアンにとって、アガサと自分の間にある秘密は、誰にも知られたくないことだった。
 うっかりジャン‐ルイの前で、アガサの本当の名前を呼んでしまったのは、最大のミスだった。
 指摘されて、もうどうにもならないか? とも思った。
 すっとぼけていられるほど、ジャン‐ルイはいい加減を許さない。
 彼が、アガサを妹のようにかわいがっているとなれば、黙っていて許してくれるとは思えない。
 だから……。
 ファビアンは時間稼ぎをしたのだ。
 ロビーまでの移動時間、ジャン‐ルイがコーヒーを運んでくるまでの時間。
 それだけ考える時間があれば、ファビアンには充分だった。

 ジャン‐ルイが、コーヒーにミルクと砂糖を入れた。
「さて。じゃあ、おしえてもらおうかな?」
 彼は、まるでゆとり……とでも言うように、コーヒーに口をつけた。
「たしかに、僕はアガサを知っていた。初めて会ったわけでもない」
 ミルクを入れずに、砂糖だけ。ファビアンは、ゆっくりとスプーンを回した。
 ジャン‐ルイが、少しだけ身を乗り出してくる。
 ――いつ? どこで? どうして?
 言葉にしなくても、顔に書いてあった。
 ファビアンは、ゆっくりとスプーンを置いた。
「アガサ・ブラウン。十二歳。イギリス出身。専属の火の精霊はフレイ。赤毛、赤茶の瞳。家族構成は、両親と兄、姉、妹……」
 まるで履歴書を読むように、ファビアンは言った。
 ジャン‐ルイの顔が、やや肩すかしをくらったような表情に変わった。
「な、なんだい? それは?」
「アガサのプロフィールだよ。うっかり見てしまったんだ」
「プロフィール? 生徒の資料なんて、見れるはずがない」
 ジャン‐ルイは疑わしそうに言った。
 ファビアンは、コーヒーを一口飲んで、ふっとため息をついた。
「確かにね。普通はできない。ところが、アガサがこの学校に来た日、僕は悪い事をやらかしていて、学長室に呼び出されていた」

 それは、嘘偽りのない事実である。
 ファビアンは、あの日、学長室でマダム・フルールからお叱りの言葉を受けていた。そして、その帰り……ドアの前で、アガサと出会ったのだから。

「ばたばたしていたので、ちらりと机の上にあった資料を見てしまった。そこには 【ソーサリエとしての血筋になく、入学を不許可とするべき】とあった。だから、僕はものすごく興味深く思って、彼女のプロフィールを全部見てしまったっていうわけ」
「……それだけ?」
「その時、アガサにも会った。ああ、この子か……と思った」
「それだけ?」
「それだけだよ」
 ジャン‐ルイは、腕を組んでうーむ……と唸った。
 ミルク入りのコーヒーは減らなかった。
「本当にそれだけ? なら、どうして秘密にする?」
「見ちゃいけないものを覗き見したことを、どうして吹聴する必要がある?」
 ふたたびジャン‐ルイは唸った。
 ファビアンは、コーヒーを飲んでいる。
「……でも、それだけとは思えない。なら、君は何でマダムの呼び出しを受けたんだ?」
 ファビアンは楽しそうに笑った。
「おいおい、よしてくれよ。それまでも言えっていうのかい?」
「ああ、優等生の君が、マダム・フルール直々の呼び出しを食らうなんて、信じられないからね」
 コーヒーの残りを、ファビアンはすべて飲み干した。
「僕が優等生? ハグレ地まで飛ぶ校則違反をいとも簡単にやってのけるのに? 君は僕を買いかぶりすぎだよ」
「……」
 ついにジャン‐ルイの追求の言葉が途切れた。
「じゃあ、コーヒーごちそうさま。また授業で」
 ファビアンは席を立った。
 納得がいかないというジャン‐ルイの視線が絡み付く。
 ファビアンが三歩歩いたときだった。
 ジャン‐ルイの声が、ファビアンの背中に突き刺さった。
「おい、待てよ」
 ファビアンは足を止めた。
 ミルクと砂糖が入ったコーヒーは、ほとんど減っていない。だが、ジャン‐ルイも立ち上がっていた。
 ジャン‐ルイが納得していないのはわかっている。でも、これ以上追求する糸口もないはずだ。
「アガタの訓練は、水曜日にしているから。約束を忘れるなよ」
 振り向いたファビアンの顔には、笑顔が浮かんでいた。
 そして彼は、指を軽く額に当て、ウインクしてみせた。