ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第3章
 救急医療センター


(3)


 肺炎一歩手前。入院二日間。
 それが、アリにくだされたドクターの診断である。

 元々ひ弱な体質であり、しかも南国のバルバル出身とあって、アリは寒さに弱かったのだ。
 医療センターの真っ白な壁と真っ白なカーテン、真っ白な寝具は、妙にアリに似合わなかった。
 アリは目が覚めると、何度も何度もアガサにお詫びした。
「ごめんなさい。迷惑をかけてしまいまして……」
 弱々しくさし出された手を、アガサは握り返した。
「こっちこそごめん。私、自分の事しか考えていなくて、アリが体調悪そうなことに全く気がつかないで、無理させちゃった」
「あなたのための無理ならば……」
 何でもします、と言いかけて、アリの言葉はとまった。
「アガタ姫? その手は?」
 アガタの手には、真っ白な包帯が巻かれていた。
「ああ、これはね、心配しなくていいよ。実は……」
 アガサが微笑んだ時、突然ドアが開いた。
「うおおおおおおおおんん! アリよ、アリ!」
 点々眉毛のイシャムである。
 アリの緊急入院を聞いて、慌ててお見舞いにきたのだ。
 言葉使いはどうであれ、アリはイシャムのご主人様だ。何かあったら大変である。
 主人を思う感動シーン……と言いたいところなのだが、アガサとアリの目は、イシャムの点々眉毛のせいで、やはり点になった。
 まだのびていない眉毛とヒゲは、今は毎日ジンが書いている。日々、色々刻々と変化してきたが、毛が伸び始めたこともあり、最近は安定した筆致に落ち着いてきていた。なのに、今回はちょっと違った。
 どうやら、アリの入院で動揺したイシャムのそわそわのせいで、精霊ジンの手元も揺れたらしい。


 病室の中の展開とは別な事件があった。
 ファビアンは、医者にアリを渡してしまうと、アガサに『まって!』の一言も言わせずに、病室を出ていた。色々質問されたり、面倒に巻き込まれることが嫌だったのだ。
 だが結局、今日は面倒が起きる日だったらしい。
 ファビアンは、医療センターの白い通路を足早に歩いていた。
 ところが帰る途中、やはりアリのお見舞いに駆けつけたジャン‐ルイとイミコにばったりと出会ったのである。
「今、アガサとイシャムが面会している」
 疑問の視線を投げかけるジャン‐ルイに、ファビアンは軽く声をかけ、去っていこうとした。だが、熱血貴公子のほうは、それですまなかった。
「イミコ、先に行っていてくれる?」
 おろおろするイミコに、やんわりと言った。イミコは、おろおろしたまま、言葉に従うしかなかった。
 こうして、ファビアンとジャン‐ルイは、白い通路で二人っきりになった。

 ジャン‐ルイは、いきなりファビアンの肩に腕を回して歩き出した。
「君が第一発見者で、アリとアガタを医療センターに運び込んだんだって? びっくりしたよ。それで、どうして君が第一発見者になりえたのか、僕には興味深いんだけど……」
 ジャン‐ルイの腕を嫌う事なく、歩調を合わせて歩き出していたファビアンだが、ピクリと眉が動いた。
「なんてことはない。たまたま散歩していたら、二人に遭遇した」
 ジャン‐ルイはにっこり笑ってみせた。
「ふーん、散歩ね。ハグレ地まで? ずいぶんと足を伸ばしたものだね。ハグレ地まで飛ぶのは校則違反だと思ったけれど? いや、その前に、そこまで往復できる君の力にも驚かされるけれど」
「…………」
 どう考えたって、ファビアンがアガサの行動を見張っていたとしか思えない事態である。
 これをどうやって言い逃れするのか? ジャン‐ルイは楽しくなってきた。
 しかし、ファビアンのほうは、あっけなく小さなため息とともに微笑みを漏らした。
「君には負けた」
 突然の敵の敗北宣言に、焦ったのはジャン‐ルイのほうだった。
「負けた? 負けたって何が?」
「君の熱心な申し出にさ。断ってみたものの、気になっていた。だから、アガサという子を探し出して、様子を見ていた」
 何だかあやしい。もっと秘密があるはずだ。
「でも、それだけでは……」
「それだけだ。君の言う通り、僕もアガサの訓練に力を貸すことにしよう。それで、いいだろう?」
 ファビアンは、水色の瞳を向けた。

 これは取引だ。
 ジャン‐ルイは、そう思った。
 ファビアンは、これ以上探りを入れられないために、折れたのだ。
 アガサの訓練を引き受ける代わりに、もう詮索するな! という事なのだ。

 ――冗談じゃない!

「君は、どうして【アガタ】を英語読みできる? おかしいじゃないか? マダム・フルールの翻訳を通している者は、アガタの本名は知らない。誰が君にアガタの本当の名前をおしえた?」
 ジャン‐ルイが握っている最強カードである。
 ここで切らねばどこで切る? そんな勢いで、ジャン‐ルイは語気を強めた。
 さすがにファビアンの顔色が変わった。やはり、彼は自分の失態に気がついていなかったのだ。
 ジャン‐ルイは、今度こそ……と思った。
「それを……説明しなくてはいけない?」
 ファビアンが歩を止め、ジャン‐ルイの腕を払った。
 かすかな緊迫感。
「そりゃあ、親友が隠し事をしているのは、気持ちがよくない」
 しばらく、二人はみつめあった。
 やがて、根負けしたファビアンがうつむいた。
「仕方がないね。じゃあ、コーヒーくらいおごってくれるかい?」
「ロビーの自販機でいいならば」
 ジャン‐ルイはにやりと笑った。