ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第3章
 救急医療センター


(1)


 かじかんだ手でどうにかこうにか服を着終えた。
「着替えました!」
 まるで軍隊のように、ただし震えた声でアガサは報告した。
 やっとファビアンがアガサのほうを向いた。見透かすような冷たい水の瞳に、アガサはぎくりとする。
 ――すべて見抜いてしまうような目。
 だが、ファビアンはすぐに目をそらした。
「そのマントも着ていて。飛んだら寒いから」
「でも、あの……アリは? あなたは?」
 ファビアンの腕の中で、がたがた震えているアリを見て、アガサの胸は痛んだ。
「僕は濡れていない。この人は、絨毯があるから」
「で、でも! 絨毯がなければ空を飛べないわ!」
 と、叫んだところで、アガサは気がついた。
 ――この人、絨毯無しで飛んできたんだわ!
 案の定、ファビアンは手を差し出した。
「僕につかまって」
 一刻を争うときなのに、アガサはドキドキしてしまった。
 三度ほど手をこすりあわせて温めて、そっと手をとろうとした……。
 が、ファビアンの声がそれを遮った。
「精霊を忘れている」
「ふぇ?」
 すっかり、コップの中で目を回していたフレイの存在を忘れていた。
 もしもフレイが目を回していなかったとしたら……。
 何と罵られても言い訳のしようがない。


 フレイ入りのコップを水のソーサリエのマントの下に抱き、アガサはファビアンといっしょに空を飛んだ。
 濡れた髪に風は冷たかったけれど、アガサは燃えるように熱かった。
 体を包み込んでいるマントが、風に煽られてパタパタと音をたてる。翻る裏地は、空の色よりも濃い鮮やかな青だった。
 この飛び方は、フレイが人間大になってアガサを学校へつれてきてくれた時に似ている。でも、アガサを抱きかかえているのは、精霊のフレイではなくソーサリエのファビアンなのだ。
 さらに言えば……フレイよりも飛び方が早い。
 青い空の下、所々にハグレ地が見える。
 水たまりに青い空と白い雲が映っている。
 そして、空を飛ぶ三人の姿。ゆらゆらと揺れながら、水に映ったり、地面に影を落としたりしている。
 アリの葉巻のような影と、ファビアンとアガサの重なった影――。
 ソーサリエは精霊を使って飛べるけれど、長時間飛び続けるには無理があるはず。だから、アリやイシャムは絨毯というアイテムを使っている。
 だが、どうやらファビアンは平気のようだった。
 時々、すぐ下を飛んでいるアリと絨毯につかまることはあったが、ハグレ地に降りて休憩を取る事もない。もしかしたら、逆にファビアンのほうがアリを支えているのかも知れない。
(本当にこの人、すごすぎじゃない?)
 飛行時間はあっという間に終わり、アガサたちは中央塔の窓からいきなり中へと入っていた。


 中央エリア――本来、ここはアガサが入れない場所である。
 パスを持たないソーサリエの生徒は立ち入り禁止だ。だが、特別緊急時に許される場所があるのだ。
 それは、救急医療センターである。
 それぞれの寮に医務室があり、ちょっとした病ならばそこで足りる。だが、ソーサリエにだって盲腸はあるし、食い意地が過ぎて食中毒をおこす者もいる。エレベーターの魔法をしくじって落下し、骨を折ったりする者もいるし、ただ医療センターの美人看護婦が目当ての輩もいる。
 とにかく緊急の病であれば、誰だってこの医療センターに運び込まれてもかまわないのだ。
 ただし……。

「ねーさん、ここでお別れだ……」
 やっと目を覚ましたフレイが、青白い顔で目をつぶり十字を切って見せた。
「え? 何? 何よ?」
 八角形のドーム型の天井を物珍しそうに口を開けながら見上げていたアガサだが、フレイの言葉に慌てて叫んだ。
「おいらとねーさんは、ここでバイバイ。中央エリアの掟は、けっこう厳しいんだ」
 目をぱちくりさせたアガサ。
 この部屋の中央には、花びら型のテーブルがあった。まるでおしべのような管が四本突き出ている。
 そのテーブルの上には、透明な容器がたくさん並んでいた。硝子のカプセル状の入れ物のようだ。
 ファビアンがその容器をとり、蓋を開けた。
 フレイはふらふらと飛んで行って、その中に入った。
 ファビアンが蓋を閉めたとたん。
 フレイは目をつぶり、胸元で腕をクロスさせた。
「さらば!」
「ちょ、ちょっとまってよ!」
 アガサが叫んだ時には、すでに遅し……。
 ファビアンは、フレイを容器ごとおしべのような管の中に押し込み、何やらスイッチを入れた。
 容器は、あっというまに管の中を移動し、テーブルの下の見知らぬ世界へと吸い込まれていった。