(4)
――ねーさん! 負けるな! 根性だ!
……と、フレイの声が響いたような気がした。
だが、根性があっても水には勝てないらしい。
溺れて死ぬ人というのは、足が届かないような深い海に入るからだ、とアガサは長年思っていた。
それに、両親もアガサの胸のあたりに線を引き、それよりも深いところに行ってはダメと言ったものだ。
だが、なんと足が届く場所でも、胸の線よりも水が少ないところでも、溺れる人は溺れるのだ。アガサも仲間入りである。
――焼け焦げ熊ちゃんの次は、ドザエモン?
だが、アガサが諦めかけたとき、突然、水がぐるぐると渦を巻き、体が持ち上げられた。
たくさんの気泡がきらきらと舞い、そのうちの幾つかが勝手にアガサの口の中に飛び込み、呼吸させた。
水は水面から更に高く持ち上がり、竜巻となった。その中心でゆっくり回りながら、アガサは水越しにあたりの風景や青空を見た。
そして……。
水を動かしている一匹の精霊。青白色の髪と切れ長の細い瞳。アガサには、見覚えがある。
「え? あの精霊は……う、嘘!」
嘘ではない。
水の精霊・レインは、ゆるりと水を操っていた。
体がくるりと回転したところで、アガサは岸辺に立つ水のソーサリエの姿を見たのだ。
風になびくブロンド。まぶしげに目元に手をかざしていて、顔ははっきりと見えない。でも、間違いなくファビアンだった。
次の瞬間、水の竜巻は方向を変え、ファビアンの近くにアガサを運ぶと、あっという間に形を失い、池の中へと戻って行った。
しかも、上手にフレイのコップまで、アガサの手の中にきれいに収まっていた。ただし、フレイは中で目を回していたが。
呆然として言葉を失って突っ立っているアガサに、ファビアンは青い裏地のマントを外して、ふわりと掛けた。
前にも感じたいい香り。薔薇の花のような……。
そして、地肌に感じるぬくもり。
(はっ! 地肌?)
アガサはぎょっとした。だが、それと同時にファビアンが口を開いた。
「早く服を着たほうがいい」
――ぎゃあああ! わ、わ、私。体育の授業用水着姿だわ!
なぜ、ファビアンと出会うとき、アガサはまともな格好でいられないのだろう?
最初は髭面パジャマ、次はタイツかぶりの忍びの者、そして今度は胸に炎マークのダサダサ水着姿なのだ。
しかも、アガサの場合、お世辞にも細身とは言えない。大地を踏みしめる太くてたくましい足を持っているのである。
陸にあげられたコイのように、アガサはパクパクと口を動かした。
だが、ファビアンのほうは、アガサにマントを貸しただけで身を翻し、無言で小走りにアリのほうへと移動した。
そして、絨毯の上でぐったりしている彼を抱き起こした。
「ひどい熱だ」
ファビアンの声で、アガサはやっとアリが風邪をこじらせている事を知った。
なぜ、気がつかなかったのだろう?
昨日の時点で、こんこんと咳をしていたし、顔も赤かったり青かったりした。
なのに、五人揃ってこの冷たい池に飛び込み、その後も濡れた服のまま、空を飛び回った。
アリはおそらく無理をしていたのだ。
アガサにお願いされて、断れなくて……。
「わ、私……。どうしよう? どうしよう?」
「君は早く着替えて!」
動揺してうろうろしているアガサに、ファビアンが短く命令した。
アガサは、ファビアンのマントを借りたまま、濡れた水着のままだった。
「そのままだと君も風邪をひく。だから、早く。着替えたら中央の医療センターまで一気に飛ぶから」
そう言いながら、ファビアンはアリの体に絨毯を巻き付けていた。簀巻きのようであるが、それしか風を防ぐ方法がない。
アガサは、あまりにも冷静なファビアンの命令に突き動かされるようにして、水着を脱ぎ出した。が、すっぽんぽんになったところで、服がファビアンたちの向こう側にあることに気がついた。
(げげげ……)
まさか、服をとってとも言えず、アガサはそっと回り込もうとした。だが、つった足がもつれてしまう。
どうにかこうにか、ファビアンの後ろを回って服にたどり着いた。
ほっとして服に手を掛けた瞬間。
急な突風でがばっとマントが持ち上がった。
――あーーれええええええ!
慌ててマントの裾を押さえ込んだが、間違いなく遅かった。
この姿には、けして地下鉄の風圧でスカートを持ち上げる女優のような優雅さはない。
イミコが側にいたら、逆さのてるてる坊主か、頭が寝ぐせで逆立った目玉親父に例えたことだろう。
そして、カエンに
「イミコ、目玉親父に髪の毛はありません。目玉だけなのですから」
と、突っ込まれ、ショックで泣き出すに違いない。
アガサも泣きたいぐらいに恥ずかしかった。しかも、誰かの視線を感じていた。
真っ赤になりながら振り返ると。
ファビアンはアリの様子を見ているのか、後ろ姿のままだった。でも薄の穂のような色のブロンドの上に、精霊・レインが棒のような足を組み、座っていた。
彼はにんまりと笑い、今更ながらに細長い指先の手で、自分の目を覆ってみせた。