ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第3章
 寒中水泳教室


(4)


 ――ねーさん! 負けるな! 根性だ!

 ……と、フレイの声が響いたような気がした。
 だが、根性があっても水には勝てないらしい。
 溺れて死ぬ人というのは、足が届かないような深い海に入るからだ、とアガサは長年思っていた。
 それに、両親もアガサの胸のあたりに線を引き、それよりも深いところに行ってはダメと言ったものだ。
 だが、なんと足が届く場所でも、胸の線よりも水が少ないところでも、溺れる人は溺れるのだ。アガサも仲間入りである。

 ――焼け焦げ熊ちゃんの次は、ドザエモン?

 だが、アガサが諦めかけたとき、突然、水がぐるぐると渦を巻き、体が持ち上げられた。
 たくさんの気泡がきらきらと舞い、そのうちの幾つかが勝手にアガサの口の中に飛び込み、呼吸させた。
 水は水面から更に高く持ち上がり、竜巻となった。その中心でゆっくり回りながら、アガサは水越しにあたりの風景や青空を見た。
 そして……。
 水を動かしている一匹の精霊。青白色の髪と切れ長の細い瞳。アガサには、見覚えがある。
「え? あの精霊は……う、嘘!」
 嘘ではない。
 水の精霊・レインは、ゆるりと水を操っていた。
 体がくるりと回転したところで、アガサは岸辺に立つ水のソーサリエの姿を見たのだ。
 風になびくブロンド。まぶしげに目元に手をかざしていて、顔ははっきりと見えない。でも、間違いなくファビアンだった。
 次の瞬間、水の竜巻は方向を変え、ファビアンの近くにアガサを運ぶと、あっという間に形を失い、池の中へと戻って行った。
 しかも、上手にフレイのコップまで、アガサの手の中にきれいに収まっていた。ただし、フレイは中で目を回していたが。
 呆然として言葉を失って突っ立っているアガサに、ファビアンは青い裏地のマントを外して、ふわりと掛けた。
 前にも感じたいい香り。薔薇の花のような……。
 そして、地肌に感じるぬくもり。
(はっ! 地肌?)
 アガサはぎょっとした。だが、それと同時にファビアンが口を開いた。
「早く服を着たほうがいい」

 ――ぎゃあああ! わ、わ、私。体育の授業用水着姿だわ!

 なぜ、ファビアンと出会うとき、アガサはまともな格好でいられないのだろう?
 最初は髭面パジャマ、次はタイツかぶりの忍びの者、そして今度は胸に炎マークのダサダサ水着姿なのだ。
 しかも、アガサの場合、お世辞にも細身とは言えない。大地を踏みしめる太くてたくましい足を持っているのである。
 陸にあげられたコイのように、アガサはパクパクと口を動かした。
 だが、ファビアンのほうは、アガサにマントを貸しただけで身を翻し、無言で小走りにアリのほうへと移動した。
 そして、絨毯の上でぐったりしている彼を抱き起こした。
「ひどい熱だ」
 ファビアンの声で、アガサはやっとアリが風邪をこじらせている事を知った。

 なぜ、気がつかなかったのだろう?
 昨日の時点で、こんこんと咳をしていたし、顔も赤かったり青かったりした。
 なのに、五人揃ってこの冷たい池に飛び込み、その後も濡れた服のまま、空を飛び回った。
 アリはおそらく無理をしていたのだ。
 アガサにお願いされて、断れなくて……。

「わ、私……。どうしよう? どうしよう?」
「君は早く着替えて!」
 動揺してうろうろしているアガサに、ファビアンが短く命令した。
 アガサは、ファビアンのマントを借りたまま、濡れた水着のままだった。
「そのままだと君も風邪をひく。だから、早く。着替えたら中央の医療センターまで一気に飛ぶから」
 そう言いながら、ファビアンはアリの体に絨毯を巻き付けていた。簀巻きのようであるが、それしか風を防ぐ方法がない。
 アガサは、あまりにも冷静なファビアンの命令に突き動かされるようにして、水着を脱ぎ出した。が、すっぽんぽんになったところで、服がファビアンたちの向こう側にあることに気がついた。
(げげげ……)
 まさか、服をとってとも言えず、アガサはそっと回り込もうとした。だが、つった足がもつれてしまう。
 どうにかこうにか、ファビアンの後ろを回って服にたどり着いた。
 ほっとして服に手を掛けた瞬間。
 急な突風でがばっとマントが持ち上がった。

 ――あーーれええええええ!

 慌ててマントの裾を押さえ込んだが、間違いなく遅かった。
 この姿には、けして地下鉄の風圧でスカートを持ち上げる女優のような優雅さはない。
 イミコが側にいたら、逆さのてるてる坊主か、頭が寝ぐせで逆立った目玉親父に例えたことだろう。
 そして、カエンに
「イミコ、目玉親父に髪の毛はありません。目玉だけなのですから」
 と、突っ込まれ、ショックで泣き出すに違いない。
 アガサも泣きたいぐらいに恥ずかしかった。しかも、誰かの視線を感じていた。
 真っ赤になりながら振り返ると。
 ファビアンはアリの様子を見ているのか、後ろ姿のままだった。でも薄の穂のような色のブロンドの上に、精霊・レインが棒のような足を組み、座っていた。
 彼はにんまりと笑い、今更ながらに細長い指先の手で、自分の目を覆ってみせた。