ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第3章
 寒中水泳教室


(1)


 好きな男の子に一度や二度ふられたくらいでめげていられないアガサである。
「これを機会に、バルバル王妃になる事も考えたら? おいら、風の精霊となら水よりはマシにつきあっていけるぜぃ!」
 フレイの言葉に、アガサの隣でアリが真っ赤になってしまった。こほこほと咳をしている。
「何を言っているのよ! どっちみち今のままじゃ、バルバルにもここにも入れないのよ! どうにか、あなたをコントロールできない事には」
 そう。そのためには、ロウソクに火をつけることが肝心なのだ。
 だから今、アガサはアリの絨毯に乗って、練習場所を探している。
「ね、それはそうと……この絨毯、ずいぶんと揺れていない?」
 同乗中のイミコは、さっきからアガサの背中に貼り付いていて、固く目をつぶっている。いっしょに場所を探すという本来の目的をまったくなしていない。
「ごめんなさい。三人乗りするには、ちょっと私の力不足で……がんばります」
 アリが赤い顔をしたまま答えた。
「おーい、おーいや、おーい!」
 少し前を飛んでいたイシャムが手を振っている。
 そちらの絨毯の上には、ジャン‐ルイも乗っていた。彼は、ずっと絨毯の上に立ち上がって、あちらこちらを探していた。
 そして、どうやらいい場所を見つけたようである。

 アガサ強化訓練初日である。
 誰もフレイの力に対抗できないならば、全員総出で協力しようということになったのだ。もっとも、今日は日曜日で学校が休みだからできるのであるが。
 ソーサリエの学校は、水曜日と日曜日がお休みなのだ。
 ――でも、一ヶ月しか期間がないのに、週二回の練習じゃあ足りない……。
 アガサは焦っていた。
 しかし、まさかこのメンバー全員に授業をさぼって! とは言えない。

 ソーサリエの学校から飛ぶこと十分ほど。
 ジャン‐ルイが見つけたのは、天空の欠片であるハグレ地のひとつである。
 真ん中に大きな池があり、それが地表の八十%は占めている。上空から見ると、まるで大きなスープ皿のような形をしている。
「ハグレ地に上陸するなんて、校則違反です。火の寮の生徒総監であらせられるジャン‐ルイ・ド・ヴァンセンヌ殿がなさることではないと思いますが」
 降り立って開口一番、カエンが言い出した。
「上陸は校則違反ではないよ。ハグレ地まで飛ぶことが校則違反なのさ」
「ますます悪い気がする……」
 そんな校則があるなんて、アガサは知らなかった。
 だが、ジャン‐ルイはそっけなく言った。
「僕たちは飛んできたんじゃない。乗ってきたんだ。だから、違反じゃない」
「すごいへりくつのような気がする……」
 アガサの横で、イシャムががはは……と笑った。
「でーじょーぶですたい! アガタ姫。おいどんとアリは許可書を持ってるとですたい」
 よく見ると、今日のイシャムの顔は眉が五倍でヒゲがなかった。精霊・ジンの筆さばきによるものだった。
「な、な、何? 今の?」
「おそらくマダムのいたずらです。すぐにいつもの口調に戻ると思います」
 アリがこほこほ咳をしながら言った。
「そうなのよぉ。マダムは、あたしが古株なので、時々こんないたずらをしでかしておもちゃにしているのよぉ」
 ……五倍眉毛で気持ち悪い。


「さて、訓練を始めようか?」
 ジャン‐ルイが池のほとりで腕組みをした。
「おいら、気がのらねぇ……」
 フレイがブツブツ呟きながら、小さなコップの中に入った。
 イミコがそっと池に浮かべる。アリの精霊・フーリが風を起こしてコップを池の向こう側へと送り出す。
 目測でジャン‐ルイが距離を指示した。
「そのあたりだな。ぎりぎりソーサリエが命令を送れる範囲だ」
 フレイと言えば、不安定なコップの中で水が怖くて震えている。コップの中央にはロウソクが立ててあって、ゆらゆら揺れるたびにしがみつく有様だった。
「おーい、早く終わらせてくれよーーー!」
 情けない声が、岸辺のアガサにも届いた。
「じゃあ、行くわよ!」
「まって!」
 いきなりジャン‐ルイ。
 アガサが呪文を叫ぼうとした瞬間である。思わず舌を噛んでしまった。
「いたた……。な、何?」
「いや、あまり力まないほうがいいと思って」
「それに予備練習をしたほうがいいわ。アガタ。まずは、何も念じずに呪文だけ唱えてみて」
 イミコもアドバイスする。
「そうなのよぉ。フレイちゃんって、とってもー、力強いんでぇー、イシャム、困っちゃうぅ」
 ……五倍眉毛で気持ち悪い。
「えーと、『ロウソクよ、燃えろ』でいいのよね?」
 アガサがゾクゾクしながら言うと、今度はアリが口を開いた。
「それは、少し強烈な命令だと思われますが、どう思いますか? ヴァンセンヌ殿」
「確かに……。少し抑えたほうがいいかも……」

「そんなのいいから、はやくしてくれーーーーー!」
 風に乗ってフレイの声が裏返って響いた。

 その声を聞いて、イミコが遠くにぷかぷか浮かぶコップに同情の視線を投げた。
「気のせいかもしれないけれど、フレイ、怖がっているようなんだけれど」
「気のせいです」
 カエンがすかさず答える。
「じゃあ、こんなのどう? 『ロウソクの火、ついたらいいな』っていうの」
「……。……」
「アガタ姫。フーリ曰く、それは弱すぎるとのことです」
 アリが小声で言う。
 その横でバーンがくるくると回転した。
「でも、フレイにならそれくらいで大丈夫」
「何せ、イシャム様の力も及ばない偉大な精霊あられますからな」
 チョコレート色の精霊・ジンが咳払いをする。
「じゃあ、ひとまずそれでいってみようか?」
 ジャン‐ルイがまとめた。

「何でもいいから、はやくしてーーーーー!」
 先ほどよりもビブラートがかかった声が、池の向こうから届いた。

「じゃあ、行くわよ!」
 と、アガサが深呼吸した時だった。
「でも、万が一の時の打ち合わせをしていなかったね」
 再びジャン‐ルイ。
「拙者が思うに、絨毯はハグレ地の下に隠しておくのがよろしいかと存ずる」
 五倍眉毛がまぁまぁ許せる。
「……。………」
「フーリが言うには、ジンにおまかせしますとのことです」
 アリの言葉を聞いて、ジャン‐ルイがうなずいた。
「じゃあ、フレイが爆発したら、フーリが逆風を起こして、バーンとカエンで炎の逆バリアーをはることにする。イミコ、できそうかい?」
「わ、私にできるのかしら?」
「僕が思うに、君は自分が思っている以上に優秀だと思うよ」
「きゃっ! そそそそそ、そんなこと……」
「大丈夫、自信を持って」
「でも私……」
「大丈夫」
「でも私……」
「大丈夫」

「つまらん漫才は後にしてくれーーー!」
 絶叫が水面を渡ってきた。

「それじゃあ、今度こそ行くわよ!」
 アガサが再び深呼吸。
 そして……蚊の鳴くような小さな声で。
「……ロウソクの火、ついたら……いいな……」
 五秒経過。
 十秒経過。
 誰もが固唾をのんで、水面に浮かぶコップの中のロウソクとフレイを見つめている。
 二十秒経過。
 だが、ロウソクは灯ることはなかった。
「あーあ、やっぱり。弱かったのかしら?」
 アガサががっくり肩を落とした時だった。

「危ない!」

 いきなりジャン‐ルイの声。
 と同時に、いきなり隣にいたアリとジャン‐ルイに、突き落とされた。
 いや、正確にいえば、五人揃って肩を組んで池に飛び込んだというのが正しい。
 バシャーーーン! と激しい水しぶき。
 と、同時に水面を火の手が走った。
 まさに一瞬の火炎放射状態である。

 五人は同時に、ぶほっと水を吐きながら浮き上がった。
 イミコとアガサは泳げなかったが、池があまり深くなかったので、溺れることもなく、自力で這い上がることができた。
「い……今の……フレイの力?」
 さすがのジャン‐ルイも、ややあきれたような声を上げた。
「! フレイ! フレイは大丈夫かしら!」
 アガサは慌てて池の向こうを見た。
 フレイが入っていたコップは、見事にくだけ散って跡形もなかった。だが、爆発して燃え尽き、水に落ちてしまったフレイを、精霊のフーリが持ち上げ、カエンとバーンが運んできた。
「キャーッ! フレイ!、あなた、大丈夫?」
 アガサが大声を張り上げると、フレイは黒っぽくなりながらも、こくっとうなずいた。
「早く! ああ、早く温めなきゃ! 火よ! 火が必要だわ!」
 おたおたするアガサの横で、アリがくしゅんとくしゃみした。
「僕たち全員、火が必要みたいだ」
 ジャン‐ルイが呟いた。