(3)
アガサが一目惚れで氷の王子様に恋をしたことを、イミコはよく知っている。そして、アガサには恋の隠し事などできないだろう事も知っている。
「二人が知り合いだなんて……思えない」
「だから、僕が思うに、ファビが一方的に知っているんじゃないかな? そして、できたらその事実を誰にも知られたくなくて、アガタとの接点をもちたくなかったんじゃないかな?」
ジャン‐ルイは、アガサの事を『アガタ』と紹介した。
だいたい、アガサの名前がアガサかアガタかなんて特に意識していなかったのだ。イミコに名前の綴りを見せてもらうまでは。
ところが、ファビアンのほうは無意識に『アガサ』と呼んでしまった。アガタという名を英語風脳内変換してしまったのだろう。
ジャン‐ルイも会話の最中は焦っていたし、アガタがイギリス人と知っていたので気がつくのが遅れてしまった。
だが、イギリス人とも知らず【Agatha】をアガサと呼ぶフランス人はいない。
おそらくあれだけアガサに入れ込んでいるバルバル人のアリだって、彼女の名が正しくは【アガサ】だとを知らないのだ。
――アガサはアガタではない。
「この学校で唯一、アガタの本当の名前を知っていた。アイツ、おそらくマダムの翻訳の粗を知らないか、それとも、知っていてうっかりしたのか、いずれにしても、何かアガタのことで隠していることがある」
「私には、全然接点が見えないわ。でも、親友ならばその事を話して、聞いてみたら?」
ジャン‐ルイは盛大なため息をついた。
「いいや、やめておく。アイツ、自分がボロを出した事に気がついていないと思う。もしも僕がそれを暴露したら、きっと警戒して注意するようになる」
「親友なのに?」
「親友だからさ」
ジャン‐ルイは、良く知っているんだよ、という顔をして見せた。
「それに僕たちはライバルでもあるしね。アイツが親友の僕にも隠しておきたい秘密なら、こっちが暴いてやるだけさ」
そのライバルという言葉が、恋敵ではないと思いたい。イミコは無言になってしまった。
その後、イミコはアガサの元に戻った。
いかにもジャン‐ルイがイミコに事情を説明していたふりをして、例の話は内緒にすることにしたのだ。
ジャン‐ルイの提言どおり、イミコからアガサにファビアンのお断りの話を切り出した。
「実は……ファビアンはレポートがたまっていてそれどころじゃないらしいの。他の属性の講義も受けているから、優等生の分、かえって忙しいみたい」
アガサが地の果てまでもがっかりしたのは、言うまでもない。しかも、モンブランもお預けである。
「そんな美味しい夢みたいな話、やっぱりないのよ。仕方がないよ。でも、ジャンジャンに気を使わせたみたい。私、ずばっと言われても平気なのに」
「優しい人なのよ。ルームメイトの私から話したほうがいいだろうって」
アガサは、あーあ、と大きな声を上げ、ソファーに転がった。
「私、てっきりジャンジャンとイミコが進展したのかって期待しちゃった! イミコだってそんな用事、嫌だよね? 優しいけれど、彼……鈍感」
「アガタ……」
イミコの声が湿っぽくなる。アガサは、がばっと起き上がった。
「ごめんごめん! ここまで親切にしてくれる人を、しかもイミコの好きな人を悪く言うつもりじゃなかったの。ただ、私がイミコだったらつらいな、ってね」
どうやら、がっかりはがっかりだが、アガサの頭は切り替わっているようである。
本当の理由を言わなくてよかった……と、イミコはほっとした。
何も知らないアガサは、イミコの手をとると力強く言った。
「どうやら私の恋は一回休みのようだから、今度は私が応援してあげるからね!」
「アガタ……。ありがとう」
――ひしっ!
謎やら嘘やら陰謀やら、ちょっぴりヤキモチ・テイストが混ぜこぜであるが。
女の子同士の友情は、とりあえず深まったようである。
だが、男の子同士の友情は、それほど甘いものでもない。
その夜、ジャン‐ルイは必死に推理していた。とはいえ、元々彼はマダム・フルールのようなミステリー好きではない。
どうしてもこの謎を解きたいのは、秘密をもたれているのに腹が立つからだ。
親友とはいえ、どこかつかみ所のないファビアンに翻弄されがちなので、いつかどこかで見返したいと思っているからかも知れない。
勉強でも妹になつかれることでも女の子にもてることでも、ファビアンはいつも二、三歩ジャン‐ルイの前を歩いている気がする。
「そしてアガタのことも? 気になるなぁ……」
ジャン‐ルイは、今日のファビアンとの会話を何度も思い返してみた。
その中に、どこか皮肉な響きはなかっただろうか?
「だいたい、どうしてアガタのことで、僕がファビに恋愛相談なんだよ!」
それって……。
――恋愛を意識しているから? とは思えないだろうか?
ファビアンは、ジャン‐ルイより先にアガサのことを見つけて、見初めていたのでは?
「じゃあ、何でこんないい申し出を断るんだよ!」
どうやら、この推理は違うようだ。
いや、もしかしたら。
「宣戦布告? 敵の恩は受けないとか?」
いやいや。これは、恋とかではない。
ジャン‐ルイは頭を振って否定した。
「だいたいアガタは妹だよ」
――妹に似ていても妹ではない。アガサはアガタじゃない。
妹とアガサを区別できない自分。
区別していると言い切るファビアン――
なんだか、よくわからなくなってきた……。
悶々としながらも、ジャン‐ルイの忙しい一日は過ぎて行った。