(2)
学生牢前の湿った床にへたりこんで、ジャン‐ルイとイミコは、はあはあと激しい息をしながら、一休みした。「ご、ごめん……なさ…い。わ、私がカエンに変な返事し、しちゃったから」
涙目になりながら、イミコが謝った。その横でカエンは飛び回っている。
「いいえ、イミコが謝る必要はありません。ちゃんとこのように超特急で目的地に着けたのですから」
「カ、カエン!」
イミコの真っ青な顔が、真っ赤になる。
謝ることを知らない火の精霊は、涼しそうな顔をしたままである。
ジャン‐ルイは立ち上がった。が、まだ呼吸が整わず、膝に手当てて半腰になっていた。
「た……たしかに無事だったから、いい事にしましょう。さ、先を……急ぎましょう」
そう言って、まだ息が苦しい状態にもかかわらず、イミコのほうに手を差し出した。
じーーーーーん!
これは、イミコの心の中に染み渡った感動の音である。
――こんなひどい目にあったのに、責める事なく手を差し出してくださるなんて、なんて優しい人なのかしら?
一目会ったその日から、すっかり彼に夢中になっていたイミコである。恋心はますます乙女チックに萌え上がった。
恐る恐る手を差し出された手に重ねて見る。
このような事態の後だけあって、手は燃えるように熱かった。その熱が、ますますイミコを熱くする。
この瞬間、イミコはアガサの事をすっかり忘れていた。思い出して、罪悪感を感じるほどに、舞い上がっていたのである。
だが、ジャン‐ルイのほうは、すべてはアガサを早く助けたいがためのことだった。
微妙にずれる感覚の二人だが、目的地はいっしょ。
二人は手を繋いだまま、湿った学生牢の奥へと進んだ。
牢番の老人に部屋を教えてもらい、鍵を借りた。
ジャン‐ルイとイミコは、ドキドキしながら、アガサがいるべき部屋の扉を開けた。
とたん!
ひゅううううううっと、風が顔に当たった。
床は見事にひとつもなく、底はすべて抜け落ちていた。
見事なまでの青空が広がり、時々白い雲が流れていく。
「そ、そんな……」
イミコはよろよろと後ずさりし、その場に座り込んでしまった。
ジャン‐ルイのほうは唇を噛み締めたまま、片膝を立てた状態で座り込み、下を覗き込んだ。
万にひとつ、アガサが先ほどのジャン‐ルイと同じように、どこかにぶら下がっていないかと思い……。だが、その影はなかった。
残念だけど、認めるしかない。
アガサは抜け落ちた床とともに落下して、べちょっとなってしまったのだ。
これは、ソーサリエの学校始まって以来の悲劇かもしれない。
いや、ソーサリエの王国崩壊に次ぐ悲しい物語である。
きっと、アガサ・ブラウンの最期は、明日の校内新聞のトップ記事として掲載され、長く語り継がれることになるだろう。
モエバーの人気は、ますますワースト記録となって盛り下がる。人々の批難を糧にしているような彼女は、きっと十回眼鏡を持ち上げて、その栄誉を喜ぶに違いない。
そして、誰もがアガサ・ブラウンの身におきた悲劇を悼み、二度とケーキの盗み食いはしないと誓うだろう。
甘いものの誘惑は、禁忌となるだろう。
中央食堂の美味しいケーキたちも、もう二度と作られることなく、多くの女子生徒たちが涙するのだ。
マカロン防犯装置は、きっとアガサへの追悼のため、白と黒に染め上げられ、時に用務員のおじさんの碁石代わりになるだろう。彼は麻雀とチェスのほうが好きなので、やはり悲しい顔をするに違いない。
学校中が悲しみに包まれるのだ。
だが、何よりもジャン‐ルイを悲しませたのは、妹と思っていたアガサを救えなかった自分のふがいなさだった。
「こんな学生牢なんて……廃止すべきだったんだ!」
絞り出すような声で、ジャン‐ルイが呟いた時だった。
――きゃはははは!
風に乗って笑い声が響いた。
聞き違いかと一瞬思ったが、イミコもその声を聞きつけたらしく、身を乗り出してきた。
――きゃー! 嫌だぁ! ははは!
やはり。
ちょっぴりふざけた笑い声である。
イミコとジャン‐ルイが、床下を覗き込む。
遥か下方から、何かが近づいてくる。
青と赤の絨毯が、ふわりふわりと飛び回っていて、そこに三人の人影が見えた。