ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第3章 アガサ、お調子に乗る


(2)

 学生牢前の湿った床にへたりこんで、ジャン‐ルイとイミコは、はあはあと激しい息をしながら、一休みした。
「ご、ごめん……なさ…い。わ、私がカエンに変な返事し、しちゃったから」
 涙目になりながら、イミコが謝った。その横でカエンは飛び回っている。
「いいえ、イミコが謝る必要はありません。ちゃんとこのように超特急で目的地に着けたのですから」
「カ、カエン!」
 イミコの真っ青な顔が、真っ赤になる。
 謝ることを知らない火の精霊は、涼しそうな顔をしたままである。
 ジャン‐ルイは立ち上がった。が、まだ呼吸が整わず、膝に手当てて半腰になっていた。
「た……たしかに無事だったから、いい事にしましょう。さ、先を……急ぎましょう」
 そう言って、まだ息が苦しい状態にもかかわらず、イミコのほうに手を差し出した。

 じーーーーーん!

 これは、イミコの心の中に染み渡った感動の音である。

 ――こんなひどい目にあったのに、責める事なく手を差し出してくださるなんて、なんて優しい人なのかしら?

 一目会ったその日から、すっかり彼に夢中になっていたイミコである。恋心はますます乙女チックに萌え上がった。
 恐る恐る手を差し出された手に重ねて見る。
 このような事態の後だけあって、手は燃えるように熱かった。その熱が、ますますイミコを熱くする。
 この瞬間、イミコはアガサの事をすっかり忘れていた。思い出して、罪悪感を感じるほどに、舞い上がっていたのである。
 だが、ジャン‐ルイのほうは、すべてはアガサを早く助けたいがためのことだった。
 微妙にずれる感覚の二人だが、目的地はいっしょ。
 二人は手を繋いだまま、湿った学生牢の奥へと進んだ。


 牢番の老人に部屋を教えてもらい、鍵を借りた。
 ジャン‐ルイとイミコは、ドキドキしながら、アガサがいるべき部屋の扉を開けた。
 とたん!
 ひゅううううううっと、風が顔に当たった。
 床は見事にひとつもなく、底はすべて抜け落ちていた。
 見事なまでの青空が広がり、時々白い雲が流れていく。
「そ、そんな……」
 イミコはよろよろと後ずさりし、その場に座り込んでしまった。
 ジャン‐ルイのほうは唇を噛み締めたまま、片膝を立てた状態で座り込み、下を覗き込んだ。
 万にひとつ、アガサが先ほどのジャン‐ルイと同じように、どこかにぶら下がっていないかと思い……。だが、その影はなかった。

 残念だけど、認めるしかない。
 アガサは抜け落ちた床とともに落下して、べちょっとなってしまったのだ。
 これは、ソーサリエの学校始まって以来の悲劇かもしれない。
 いや、ソーサリエの王国崩壊に次ぐ悲しい物語である。
 きっと、アガサ・ブラウンの最期は、明日の校内新聞のトップ記事として掲載され、長く語り継がれることになるだろう。
 モエバーの人気は、ますますワースト記録となって盛り下がる。人々の批難を糧にしているような彼女は、きっと十回眼鏡を持ち上げて、その栄誉を喜ぶに違いない。
 そして、誰もがアガサ・ブラウンの身におきた悲劇を悼み、二度とケーキの盗み食いはしないと誓うだろう。
 甘いものの誘惑は、禁忌となるだろう。
 中央食堂の美味しいケーキたちも、もう二度と作られることなく、多くの女子生徒たちが涙するのだ。
 マカロン防犯装置は、きっとアガサへの追悼のため、白と黒に染め上げられ、時に用務員のおじさんの碁石代わりになるだろう。彼は麻雀とチェスのほうが好きなので、やはり悲しい顔をするに違いない。
 学校中が悲しみに包まれるのだ。
 だが、何よりもジャン‐ルイを悲しませたのは、妹と思っていたアガサを救えなかった自分のふがいなさだった。
「こんな学生牢なんて……廃止すべきだったんだ!」
 絞り出すような声で、ジャン‐ルイが呟いた時だった。

 ――きゃはははは!

 風に乗って笑い声が響いた。
 聞き違いかと一瞬思ったが、イミコもその声を聞きつけたらしく、身を乗り出してきた。

 ――きゃー! 嫌だぁ! ははは!

 やはり。
 ちょっぴりふざけた笑い声である。
 イミコとジャン‐ルイが、床下を覗き込む。
 遥か下方から、何かが近づいてくる。
 青と赤の絨毯が、ふわりふわりと飛び回っていて、そこに三人の人影が見えた。