ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第3章 アガサ、お調子に乗る


(1)

 マダム・フルールの魔法結界が解けた朝、ジャン‐ルイとイミコはまっすぐに学生牢へと急いだ。充分手遅れとも思われたが、万が一に望みをかけて。
 火のソーサリエの寮、階段の吹き抜けには、朝っぱらからイミコの悲鳴が鳴り渡った。
 お陰でその日、サボリを決め込んだジャン‐ルイとイミコを除いて火のソーサリエで授業に遅刻したものはいない。
 実際、イミコの悲鳴は落下速度に比例するらしく、前回よりもけたたましかった。内気な彼女の元に、オペラ同好会の誘いが来たのは、また後の話となる。
 さて、今はアガサの元へと急ぐ二人であった。

 学生牢への道は、かなり急な階段を下っていかなければならない。
 イミコは不安だった。
 実は、高いところから飛び降りて自殺を図ったくせに、高所恐怖症のようなのだ。いや、正確に言えば、死を覚悟して飛び降りたからこそ、高いところ恐怖症になったと言うべきだろう。
 ぐるぐると螺旋状になっていて、しかも一人がやっと通れる幅しかない。階段の角は丸くなっていて、下手をしたら滑り落ちてしまいそうである。
 ジャン‐ルイは、よほどアガサの事が心配なのか、階段を下り始めた時は、イミコに声をかけてくれたものの、あっという間にイミコを置いてきぼりにして、しかも見えなくなってしまった。
「ジャンジャン?」
 下に向かって声をかけてみたが、何も返事はない。
 イミコはますます不安になった。
 ぽっと暗がりにカエンが光となって浮かび上がった。
「イミコは臆病すぎるのですよ。いっそのこと、魔法で一気に滑り降りますか?」
 それが簡単な魔法ならば、ジャン‐ルイだってやっているはずだ。
 高度で危険な技だと思うから、駆け下りていったことを考えると、とてもその気になれない。
「カエン、私……それは……いいです」
「かしこまりました」
 にやり、とカエンは妖しく微笑むと、あっという間に大きな火の玉となって、イミコを包み込んだ。
「きゃああああああああああ!」
 階段の上下に突き抜けるような、イミコの絶叫が響いた。

 それはいいです。

 この言葉を、日本語を理解するカエンが「いらない」「遠慮する」という意味と受け取らなかったのは、単に意地悪だからである。
 カエンの魔法によって、まるで流星のごとく、いや、しゅるしゅる舞う花火のごとく、イミコは螺旋階段を滑るように飛び下り、ついにジャン‐ルイに追いついた。
 追いついたというよりも、激突した。
「う、うわ!」
 必死に汗を拭きながら駆け下りていたジャン‐ルイが、ふっと息をついた瞬間だった。
 背中に何かがぶつかったと思ったとたん、いきなりジェット・コースターに乗り込んだ状態になったのだから。
 しかも、スクリュー・コースターとフリー・フォールの醍醐味を併せ持った究極の体感速度。下手すれば壁に激突のスリル満点、究極の迫力だ。
 イミコのけたたましい悲鳴は超音波となって、もはや人の耳には聞き取れない代物になっていた。
 テーマ・パークの担当者がいたら、アトラクションとして取り上げたに違いない。だが、残念ながらいなかった。
 それよりも、もっと困ったことが起きつつあるのだ。
 そのまま階段の下まで落ちてしまったら、二人とも石の床に叩きつけられる。
 とても命の保証はない。
 失神寸前のイミコに比べて、ジャン‐ルイのほうは冷静だった。
 すぐに起こるべき事態に備え、火の精霊言語を使ってバーンに命じたのだが……。
 精霊のほうは、全く無事ではなかった。
 なんと、イミコの超音波に耳をやられてしまい、完全失神状態だったのだ。
 しかも、このバカバカしい魔法を使ったカエンさえも同じ状態である。
「うわー! そ、そんなあああ!」
 さすがのジャン‐ルイも、ここで初めて悲鳴を上げた。背中にしがみついていたイミコが、ついに気を失った。
 螺旋階段のくるくるを高速回転で落ちている。もう目が回っている。
 床は、もうすぐそこまでのはず……。

 たかが学生牢に行くだけという冒険のために、命を落とす?

 ジャン‐ルイは、床に叩き付けられる瞬間に、そう思って情けなくなった。
 将来は、世界平和のために、人々が幸せな生活を送れるように、政治家となりたい彼だった。
 それが、このようなところで死ぬわけにはいかない。
 でも、もう何も打つ手はない。
 ところが、その願いが届いたのか、ジャン‐ルイの体が床に触れたとたん、床がそっくり抜け落ちてしまった。
 ジャン‐ルイは、とっさに手を伸ばし、床の端に片手でぶらさがった。
 完全に失神しているイミコを小脇に抱えて……の、とても大変な状態だが、遥か下方まで落ちてゆく床材と共に落ちることなく、かろうじて空中に留まったのである。
「バーン! カエン!」
 風に吹かれながら、ジャン‐ルイは必死に精霊に呼びかけた。
 彼らの力がなければ、間違いなくあと十秒後には、真っ青な空の中に落ちて果ててしまうだろう。
 床の端に掛かった指は、ずるずると滑り、その場所から離れようとしている。
「もう……だめか?」
 ジャン‐ルイがそう思ったとたん、するりと手が離れた。
 真っ逆さまに落ちていく。
 と、思われた瞬間、エレベーター魔法により、ジャン‐ルイとイミコの体はふわりと宙に留まった。
 二人の回りを、二人の精霊たちが輪になって踊っていた。
 イミコが気を失い続けていてくれたので、バーンもカエンも意識を取り戻したのだった。
 気がついて超音波をあげそうになったイミコの口を、慌ててジャン‐ルイが押さえつけた。

 実は、その床は、昨日修理中にうっかりイシャムが踏み抜いてしまい、簡単な応急修理を施しただけの場所だったのである。
『ま、あとでしっかりと直すだす』
 などと言いつつ、イシャムはヒゲを撫で付けていた。
 ところが、イシャムはその後、アガサと出会い、すっかりそこの修理を忘れてしまったのだ。
 しかも、その後大事なヒゲをフレイに焼かれてしまい、おーんおーんと泣いたので、学生牢の床の事など、思い出すこともなかったのである。
 巡り巡って、アガサがジャン‐ルイとイミコを助けたことになる……とも言えるが、間違いなく感謝はされないであろう。