(4)
唖然として、イシャムを見つめるアリとアガサ。イシャムは目をぱちくりさせ、いつものようにヒゲを撫でた……が、ヒゲは触れたとたん、ぱらぱらと落ちてしまった。
「あ、う……我が輩のヒゲ……」
イシャムは大ショックを受け、おーんおーんと泣き出した。
まさに噴水のような涙である。ミント茶の中にも降り注ぎ、あふれんばかりである。
「う、おいら、泣く奴は嫌い……」
フレイは涙を避けるようにして、ひらひらとアガサのほうへと飛んできて、肩に止まった。
代わりにアガサの左肩に止まっていた土の精霊ジンが、ふらふらとイシャムの方へと飛んでいった。
そっとイシャムの肩に止まり、得意のおべっかを言うつもりだったようだが、土砂降りの雨のようなイシャムの涙に、ジンもあっという間に濡れネズミとなった。
ぶるるんと羽を震わせたとたん、滝のような涙におし流され、あわれ、ミント茶の中にぽちゃんと落下した。
あまりのイシャムの悲しみように、アガサとアリはその場を離れるしかなかった。
アリの絨毯に乗って、風のソーサリエの寮にある中庭に降り立つ。
風に揺れる花々の他に、誰が立てたのかわからない色とりどりの風車が回っていた。
とてもきれいだったが、ここまで響いてくるイシャムの悲しい泣き声に、それを愛でる気持ちにはなれない。
「おいら、できるだけ加減していたつもりだけど……やっぱ、無理かな?」
フレイが申し訳無さそうに言う。
そのフレイの回りを風の精霊フーリがくるくると回り、やがてアリの耳元まで飛んでゆき、何かを囁いた。
「フーリが言うには、フレイは非常に力の強い精霊なので、イシャムには抑えきれなかったのではないかと」
その言葉は、アガサにはとても意外だった。
「え? フレイってそんなにすごい精霊なの?」
突然、フレイが怒って抗議した。
「ねーさん、おいら、何度も言っただろ? おいらはとても偉いソーサリエに何度も付いていた、すんごーく偉大な精霊なの! なんで、おいらの言葉を全然信じないんだよー!」
「だ、だって……」
確かにフレイは、ことあるごとに、頭がいいとか、優秀だとか、すごいとか、自分のことを褒めたたえていた。
だが、アガサは本気にしてこなかった。こんな言葉の悪い精霊が、そんな偉大な精霊だなんて信じられるはずがない。
ましてや、付く人を間違っちゃうようなおっちょこちょいだし……。
いや、もしかして。
フレイはとても丁寧な言葉を話しているのだけれども、マダム・フルールの翻訳により、とんでもない言葉使いになっているだけかも知れない。
「だいたい、おいら、とても礼儀正しいし、紳士だし、頭もいーの! それがなんで、アガタなんかに間違って付いたかは、ホーンと不思議だぜ!」
――やはりそれはないか……。
アガサは試しに両手で耳を塞いでみた。
『私はとても礼儀正しい紳士ですし、賢くもあります。その私めがなぜ、アガサ様に誤って付いてしまったのかは、非常に不思議なところでございますが……』
フレイの口の動きに合わせて、脳内吹き替えしてみたが、しっくりこない。紳士というよりは漁師か魚屋の親父みたいだ。イキと威勢はメチャクチャよいのだが。
フレイはくるりと回転しながら飛び上がると、アガサの手の上にとまり、耳たぶを引っ張って怒鳴った。
「おーい! 聞いているのかよ! この、マシュマロ坊主!」
「な、なんですってぇ! 言ったわね! 火の玉団子!」
最近太り気味のアガサにとって、マシュマロ坊主は侮辱だった。しかも、耳がクギンギン痛い。
ぎゃーぎゃー怒鳴るフレイを見ていると、だんだん腹立たしくなってきた。
「どうせ、私なんかに付いて困っているんでしょ! フレイなんて、私のこと、迷惑に思っていたんだ!」
「なんで、そこでイミコ化するんだよ! だいたい、いじけるのはかわいい女の子がするといいけれど、アガタのようなのがすると、気持ちわりーだけじゃん!」
「わ、わ、私だって、いじけてかわいい女の子よ!」
アガサは髪を逆立てて怒った。
が。
大げんかになりそうなところ、間に入ったのはアリである。
「アガサ姫は、いつでもかわいく美しいかたですよ」
思わず、アガサもフレイもどっと疲れて戦意がそがれてしまった。
やはり、アリという美少年、間違いなく美的感覚がずれている。
喧嘩の仲裁が上手くいって、アリはゆっくりと話し始めた。
「イシャムはあれでも素晴しい力を持ったソーサリエなのです。いかに違う属性とはいえ、まったく抑えきれなかったというのは信じられません」
風の精霊フーリが、こくこくうなずきながら、アリの回りを飛んでいた。
「私が見ていたところ、最初、イシャム様は確かにフレイの力を制御していたと思います。でも、アガタ姫が声を上げたとたん、力は暴走しました」
「え! じゃあ、私が原因?」
「おそらく……」
がーん。
大ショックである。
「アガタ姫の期待が一種の呪文として伝わって、フレイの力が解放されたのです。イシャムが抑えきれないほどに」
ということは……イシャムのヒゲを焼いてしまったのは、フレイのせいではなくアガサのせいなのだ。
そういえば。
思い返せば、アガサは学校の先生のヒゲを焼いちゃったり、ぼや騒ぎを起こしたり、とんでもない失敗を繰り返してきたのだ。
そして、変わり者とか、変人とかいわれてきた。
もっとも、そのせいで、アガサは鍛えられて、ちょっとやそっとじゃ負けない根性を身につけたのだけど。
「わ、私、どうしたらいいの?」
この調子では、とても火などつけられるようになるわけがない。
心を殺し、何も願わないようにしないと、みんなに迷惑をかけまくってしまうことにもなりかねない。
アリは何も言わず、庭に咲いているデイジーの花を一輪摘んだ。そして、そっと香りをかぐ仕草をした。
「その花、香りないぜ」
というフレイの言葉を、アリは無視して、アガサに歩み寄った。
風に花がそよぎ、風車がカラカラと音を立てて回っている。この中庭には、今やアガサとアリしかいない。
そう、少なくてもアリはそう思っている。
「アガタ姫、あなたはソーサリエの道をあきらめるべきです。あなたが制御するには、フレイはあまりに力が強すぎる」
「ぎゃー、勝手なことをいわんでくれよ、にーさん!」
アリは再びフレイを無視して、アガサの髪に白い花を差した。
「まるですべてが間違っているように思えましたが、これは運命です。私とあなたの出会いのために、まるでバルバル絨毯の柄のように複雑に織り込まれた運命……」
「へ?」
アガサは思わず奇妙な声をあげてしまったが、アリのほうは二の線一直線であった。
「あなたが普通の人であれば、私とここで出会うはずがなかった、それがこうして出会う運命だったのですから、これはバッラーの神の思し召しに違いないのです」
「やめてくれよ、おいらの過ちは運命だったってぇ? 冗談はよせー!」
三度無視されるフレイであった。
アリはその場にひざまずくと、アガサの手を取り、手のひらに口づけした。そして漆黒の目を潤ませながら言った。
「美しい人よ、私はバッラーの神の導くがまま、あなたに求婚いたします。どうぞ、私がこの学校を卒業するまでお待ちください。必ずや、迎えに参ります」
「はあーーー???」
アガサ・ブラウン、十二歳。
あまりに早いプロポーズであった。