(2)
せっかくの再会。それなのに、こんなわずかな時間?
アガサは寂しかった。でも、今はにんまり頬が緩んでしまうのを抑えることが出来ないほど、うれしい気分になっていた。
フレイもとりあえず生き返ったし。めでたしめでたし。
アガサは、ファビアンが指し示したとおりの出口から図書館を出た。
そして、そのまま真直ぐに進んだ。
フレイは、少しづつ元気を取り戻し始めていた。
しかし、ファビアンのくれたロウソクはやや細すぎてとっかかりがなく、時々力なく床に落ちる有様だった。アガサはその度にフレイを拾い上げ、そっとロウソクの天辺に置くのだった。
フレイは、時々うーんうーんと唸った。
「ちくしょー! あのヤロー! ファビアンのヤロー!」
アガサには、聞き逃せない言葉だった。
「何を言っているのよ! あの人のおかげで私たち、助かったんだから!」
フレイは、力なくろうそく伝いに体をずるる……と落下させた。
「でもよ、アイツ、マダムと同じ方法を取りやがった! おいらをレインの力で封じ込み、水をかけて半殺しにしたうえに、おいらが燃やしたものを一気に復元させる魔法を使ったんだ!」
「すごい……」
アガサは、全くフレイに同情しなかった。そのかわり、うっとり熱に浮かされたようにぼんやりとした。
「それにさ、弱りきったおいらの力を利用して、ロウソクに火までつけやがって……」
水のソーサリエであるファビアンがロウソクに火をつけられた理由。
それは、なんとフレイの力を引き出して利用したからなのだ。
さすが、無のソーサリエに一番近いといわれるだけある。
しかも……。
アガサ――その名前を呼んでくれた。
これこそ、二人が運命の恋人同士の証に違いない。
――だって、この世界でたった一人だけよ!
アガサって私を呼んでくれるのは。私の正しい名を呼べる人は。
この学校で出会った人々の人数を考えずに、断定してしまうアガサであった。
なぜ、ファビアンがアガサの名前を知っていたのかは疑問だ。
だが、【アガサ】という正しい発音ができたのは、なんとなく思い当たることがある。
おそらくファビアンには、マダム・フルールの翻訳など必要がないのだ。彼は、四大精霊言語をマスターしているに違いない。
アガサは、久しぶりに聞いた自分の名前を、うっとりと思い出していた。
「彼って、本当に天才なのね……」
夢心地になって、アガサは呟いた。
――もう、本当に完璧な王子様……。
色々あったが、アガサの人生は薔薇色であった。
色々をすべて埋め合わせても、正しい名を読んでくれる王子様と出会えた喜びに鑑みれば、たわいもないことだった気がするのだ。
ちょっとくらいフレイが死にかけても、フレイの炎で自分が死にかけても、王子様に救われたならば完璧である。
今のアガサは、恋の炎でメラメラと燃えていた。
いや……今のところは……と、言い直しておこう。
ファビアンの示した道は、先ほどとは経路が違う。
食堂までの回廊は、片面がガラス張りになっていて、もう片面には大きめの窓があった。シャンデリアがぶら下がっていて、これに灯りが灯れば、さぞや豪華な場所だろうと思われる。
ロウソクに神経を集中させて、アガサは抜き足・差し足・忍び足で歩いていた。
そして、ふと……。
アガサはつい、鏡に写った自分の姿を見て、ショックでロウソクを落としそうになった。
タイツを被り、足の部分をぐるぐる巻きにして、顔を隠している。
ピチピチのスエット・スーツに、深緑色の唐草模様の風呂敷マント。
抜き足差し足の片足を上げたところで、硬直している自分の姿は……。
まさに、忍びの者である。
――あんまりじゃない! この姿で私!
あの、ファビアン・ルイ・デ・ブローニュとお話してしまったんだわ!
さらに最悪なことに……汗臭い。
これで、ファビアンのマントに包まれていたかと思うと……。
滝のように汗が出てきてしまった。顎が床まで落ちそうになった。
運命の恋に、障害はつきもの。
だが、これほどまでに残酷な障害が、この世にあるものだろうか? いいや、ない。
少なくてもアガサが知っている限りの悲恋話の中で、最悪の展開である。
「うううう……死んじゃいたいほど、恥ずかしい!」
今までの疲れも一気に出てしまい、アガサは回廊の真ん中でへたりこんでしまった。
よくよく考えると、浮かれるべきことは何もない。
結局、とても親切なジャン‐ルイを裏切ってまでした冒険も、本を読み切ることができなかったから失敗しているのだ。
それなのに、つい王子様と話せたからと思って、有頂天になっていたなんて!
恋する乙女の心は、変わりやすい天気模様に似ている。
悪いことばかりが、次から次へとアガサの脳裏に浮かんでは消えた。
あまりのショックに、アガサは一気に落ち込んだ。
フレイが、必死になってロウソクを這い上がってきた。
「ねーさん、泣くなよ。おいら、これ以上弱ったら、本当に死ぬ」
やっと一言口にすると、力なく、つつつ……と落ちていく。
アガサは泣きながら、フレイを捕まえると、再びロウソクの天辺に乗せてあげた。
「……ねーさん。本当にファビアンは無理。火のソーサリエと水のソーサリエは、一緒にはなれない」
「私、ソーサリエなんかじゃないもん!」
アガサは、もう湧き出す涙を抑えることができなかった。
「ソーサリエだったら、フレイを抑えきれたはずだわ!」
突然、燃え盛るフレイに対して何も出来なかった自分を思い出してしまったのだ。
あの時の、情けない気持ちといったら……。
わーっ! と大きな声を上げて、アガサは床にふしてしまった。
フレイは、よろよろと飛んできて、アガサの頭の上に着地した。
本当は、涙はフレイの体に毒なのである。しかし、フレイはアガサの被ったタイツの上に膝を抱えて座り込んだ。
「あのさ……。アガタは、もしかして、火と水の相性の悪さって、わかっちゃいないんじゃねーの?」
「ひくっ」
これが、唯一アガサが出せた返事代わりの声だった。
「そういやぁおいら、説明していなかったかな? だいたい、駄目っていえば、普通は皆、納得してくれるがよ、ねーさんは変わっているからなぁ……」
「ひくひくっ」
これは、そんなことはないという否定の言葉だが、さっきのイエスとあまり違わない。
フレイは長い話を語り始めた。
「これはさぁ、ソーサリエの王国崩壊の伝説なんだけれどさぁ……。よおーくよおーく聞いて、心に留めておいてくれよな」