(1)
意識が遠のいた。それくらいの痛みだった。
きっと、全身大火傷の熊ちゃんになって、今度こそ死んだに違いない。
アガサはそれでもフレイを押さえ込んだまま、動かなかった。
焼け死ぬなんて、考えていなかった。
ただ、フレイをどうにかしたかったのだ。
「ねーさん……」
フレイの声がかすかに聞こえたような気がする。
アガサは、急に体の支えを失って倒れかけた。
しかし、誰かの手が、アガサの肩を引き寄せた……。
そこで、アガサは目を開けた。
痛みも何もない。火傷もしていないようだ。
本も燃えていない。本棚もそのままだ。
目をパシパシ瞬いてみたが、燃えている物は何もない。
夢? 夢にしてはリアルに痛かった。
フレイ――フレイもいない!
叫びそうになったアガサの口を、誰かの手がふさいだ。
「しっ! 静かに……。こっちへ」
囁くような小さな声。
しかし、引き寄せる力は意外と強い。
アガサは何が起きたのかもわからず、声と腕に抵抗したが敵わなかった。
アガサは、引き寄せられて隣の本棚の影に隠れた。
動揺して騒ぐアガサだったが、腕にしっかり押さえ込まれていて、動くことができない。
「静かにして……。君は捕まったら即退学だ」
声の主は、もう片手に持っていたロウソクの火を、息を吹きかけて消した。
水のソーサリエたちが精霊を連れて姿を現したのは、一瞬後のことである。
彼らは、不思議そうに本棚のあたりを調べていた。
「確かに燃えていたのにね」
という声が聞こえてきた。
フレイが近くにいたら、また大変なことになるかも? とアガサは心配になり、覗こうとした。が、手の主はそれを許さなかった。アガサを自分が羽織っているマントの中に押さえ込み、耳元で囁く。
「駄目!」
かすかないい香り。囁き声でありながらも、きれいな声。
マントの裏地がほんのり青い。青いのは、たしか……水のソーサリエだから?
アガサは、恐る恐る上目使いでその人の顔を見上げた。
暗闇の中でもはっきりとわかるプラチナ・ブロンドの少年。
「むが……」
と、アガサは奇妙な声を出した。
「誰かいるのですか?」
水のソーサリエの声が響いた。
隠れきれないと判断したのか、少年はアガサを押さえ込んでいた手を緩め、立ち上がった。
つられて立ち上がろうとしたアガサに、手で静止の合図を送る。そして、その手で本棚から本を取り出し、読みはじめた。
まるで、あたかもずっとそこで読書していたようなふりだ。
アガサが驚いたこと。
それは、さっき吹き消したはずのロウソクが、彼の手の中で再び燃え始めていたことだ。
(火をつける魔法を知っている?)
この人は、水のソーサリエなのに?
驚きすぎて、アガサはしゃがみこんだままだった。
そのアガサを隠すように、彼は立っていた。
「誰かいますか?」
再び水のソーサリエたちの声がした。
同時に、まだ幼い顔をした少年たちが顔を出した。監視役のソーサリエたちは、3年生である。十四歳くらいだろう。
「誰か……あ! ファビアンさん!」
少年の声が急に上ずる。
「ご、ご、ごめんなさい! 僕ら、勉強の邪魔をするつもりではなかったんです!」
少年たちの動揺した声で、アガサをかくまってくれている少年が、どれほどの人物なのかがよくわかった。
ファビアンは、読みかけの本を片手に返事をした。
「僕のほうこそ……。夢中になりすぎていて、返事もしないで悪かった。それに、時間外で図書館を利用しているほうが悪いよね」
いえいえ、そんなそんな……というざわめきが、少年たちから漏れている。
アガサときたら、このような危機迫った状態なのに、なぜかうっとりとファビアンの声に聞き惚れている。
「申し訳ないついでに、もうすこしだけ見逃してもらえるかな? ここのところだけ、今日中に読み終えたいんだ」
「ももも、もうとんでもないです!」
監視人のはずの少年たちは、すっかりどもっている。これでは、ジャン‐ルイの前にいるイミコのようなものである。
「君たちが見回ってくれているから、学校も貴重な本を保管しているこの図書館を開放してくれる。感謝するよ」
ファビアンのこの言葉で、少年たちは照れながらも見回りを再開し始めたようだった。
やがて、少年たちの気配が消えた。
ファビアンは本を閉じて本棚に戻した。
そして、アガサに手を差し出した。
――こ、これって夢じゃない? 夢だから、燃えても生きているし?
その手を取っていいのか、どうなのか、悩んでしまう。
触れたとたんに目が覚めて、イミコの手を握っていた……とか、あるんじゃない?
火事になったのも夢ならば、王子様と再会するなんて、絶対夢に違いない。だいたい、あまりにも話が出来すぎているではないか!
すると、ファビアンのほうがアガサの手をとり、助け起こしてしまった。ひんやりと冷たい手。でも、氷なんかじゃない。夢でもない。
ありがとうもいえないうちに、彼のほうが口を開いた。
「君の精霊を早く探したほうがいい。たぶん、弱って死にかけていると思うから」
「えーーーーーーっ!」
場所もわきまえず、アガサが悲鳴を上げたので、ファビアンの顔が歪んだ。どうも、気さくなタイプではないらしい。美しさには、どこか触れがたいところもあって、彼を神経質に見せていた。
ファビアンは、手に持っていたロウソクの蜀台をアガサに持たせた。
「これを君にあげる。精霊を見つけたら、この火の中に入れるといい」
ロウソクに照らし出されたファビアンの顔立ちは、彫刻のように整っていた。抜けるように白い肌は、やや、生気のないようにも見える。ジャン‐ルイの明るさとは対照的だった。
「あ、あり……」
「精霊を助けたら、真直ぐにあちらの出口から出て、食堂を抜け、部屋に戻る。いいね?」
ファビアンが指し示した方向に、水の精霊レインが踊っていた。
「あの、私。あの……」
まだ、何がなんだかよくわかっていないアガサに、ファビアンははっきりと言った。
「いいから早く戻って。アガサ」
一瞬、何事が起きたのかと思った。
耳の奥に、なんどもその声はこだました。
アガサ・アガサ・アガサ……。
懐かしい名前。
十二年間も呼ばれていたはずなのに、しばらくぶりで聞くと何とも不思議。
「どうして? どうして私の名前を?」
一瞬、ファビアンの口元が緩みそうになったが、説明がなされる暇はなかった。再びチラチラと水のソーサリエたちの精霊の明かりが見え隠れしている。
ファビアンが指し示した方向に彼らが行ってしまったら、厄介なことになるかもしれない。
「いいから、早く。早くしないと、君の精霊は死んでしまうよ」
フレイ!
フレイが死んじゃう!
アガサは気が動転した。
慌てて、先ほどの本の近くに戻り、這いずり回ってフレイを探した。
燃えたはずの本棚の下に、真っ黒になってしまったフレイの姿を見つけたとき、アガサは泣きたくなった。
マダム・フルールの時よりもひどい。
もう死んでしまっているのかもしれない。
でも、涙はもっといけないのだ。精霊を弱らせてしまう。
黒い燃えカスのようなフレイを、アガサはロウソクの上に乗せた。
初めは、全然赤くならなかったけれど、しばらくすると、少しずつ髪に赤みが増してきた。
そして、フレイは……やっと目を開けた。
よかった!
アガサは喜んで、御礼を言おうとして立ち上がった。
だが……もうそこには、ファビアンの姿はなかった。