(4)
汗だくになったアガサは、時間を気にして小走りに移動した。朝までに本を一冊読みきらなければならない。そして、ジャン‐ルイにパスを返さなければならない。
それなのに、図書館への道のりは遠かった。
やっと、木製の大きな扉の前にたどり着いたとき、アガサはへたり込んでしまった。
鼻の下のタイツが汗で湿っている。一度ほどいて汗をしぼり、再びぎゅぎゅっと絞めなおす。
気合は十分。
アガサは、扉をそっと開けた。
図書館からは、かすかなインクのにおいがした。
もっと強く香っているのかもしれないが、鼻まで押さえられたタイツのせいで、それほど感じないのかもしれない。
ほどよい湿気のせいか、ひんやりとした空気が流れ、汗だくのアガサには心地よく感じられた。
抜き足・差し足・忍び足……。
アガサはそっと奥に進んだ。
暗闇に目が慣れていたせいで、本棚などはぼんやりと見える。かなりの数で、どこに何の本があるのか検討もつかない。
しかし、フレイは過去の記憶を思い出したのか、アガサを目的の本棚まで真直ぐに導いた。
その途中、時々ろうそくの光を見た。
見ると、本棚の影に隠れて本を読んでいる生徒たちがいるのだ。
彼らは黒いマントを着ているので、あまりよく姿が見えない。しかし、そのマントの裏地が、燃えるような赤だったり、爽やかな青だったり、萌立つ緑だったり、鮮やかな黄色だったりする。それが、時々目につくのだ。
ジャン‐ルイが、はじめて会ったときに着ていたものと同じ……それに、学長室で会ったファビアンとも……。
マントは、3年生以上のソーサリエが着用する、いわば、属性を見分ける制服なのだ。
「今はもう閉館の時間なんだけれど、ここの本は持ち出し禁止だから、熱心な生徒が忍び込んで勉強しているってわけさ。学校側もそれを大目に見ているけれど、火の管理は大事だから、水のソーサリエたちが当番制で監視している。見つからないようにな……」
フレイが小声で言った。
「それに、水のソーサリエに見つかったら……あぶねーからな」
「うん、わかった」
アガサは小声で答えたが、本当の危険の意味を知るのは、もう少し後になってからである。
ついに目的の本にたどり着いた。
「ねーさん、人の気配はしないか?」
フレイは珍しく神経質になっている。羽根をブルブルと揺らしながら、目もきょろきょろとさせている。
「大丈夫みたい」
「監視係は、精霊の明かりだけで動いているし、本を読んでいるヤツラみたいに一ヵ所に留まっちゃくれねぇ。気をつけろよ!」
うるさいフレイを無視して、アガサは本を取り出し読み始めた。
頭に叩き込まなければ! と思ったが、その気力は疲労困憊と眠気に時々阻害された。
『火をつけるには、火の精霊の力を利用して、それを制御しなければならない。しかるに、精神力が問題となり……』
コクリ。
『強く念じることは禁物であるが、念じる力が足りないと火はつかない』
コクリ。
『つまり、火をつけるには火の精霊の力は微弱でいいのであり……』
コクリ。
「ちょっと! ねーさん! 眠っている場合かよ!」
フレイがそう怒鳴って、アガサの頬にキスをした。
「あちちちちっ!」
突然、頬に火を押し付けられたような熱さを感じて、アガサは手を払った。
しかし、フレイはすでに学習していた。同じ手は食わないとばかりに、アガサの手をかいくぐり、アガサの膝の上にある本の上に着陸した。
「アガタ! しっかりしてくれよ! 眠気ぐらいこらえろよ!」
とは言われても。
ここまで来るのに体力を使い果たしている。
今日一日で上った階段の数は計り知れない。カエンがいたならば、丁寧に数えてくれたかもしれないが。
さらにケンスイのごとく階段ぶら下がりと、激しい踊りである。
それに、まずい食事は食欲がわかず、ここにきて、アガサはおなかがすいていた。
眠い要素はたくさんあった。
「ううう、ごめん。フレイ。また眠りそうになっていたら、起こしてね」
と、情けないことをいうアガサであった。
「ううう、しょうがないねーさんだなぁ!」
仁王立ちになって、フレイは文句を言った。
そのとたん。
アガサは目を疑った。
フレイの足元の本が黒く変色したかと思うと、メラメラと燃え始めた。
「フレイ! 本が!」
「え? 何、何だよ!」
不機嫌そうなフレイの髪は、いつもよりも赤みを増し、さらに量が増えている。
「本が燃えているよ! フレイ!」
え? とばかりに、フレイは飛び上がった。
アガサは慌てて本を膝の上から払うと、マントを取り、必死になって本の火を消そうとした。
しかし。
アガサは回りが急に明るくなったことに気がついた。
なんと、フレイが大きくなっていた。炎をまとってさらに大きくなりつつある。
しかも、横にある本棚が燃え始めている。
その様子に、フレイは自分に何が起こっているのかわかったらしく、大声で怒鳴った。
「アガタ! まずい! 近くに水のソーサリエがいる! 早くおいらを抑えて!」
「抑えてって言っても、どうやって!」
やっと本の火を消し止めたアガサは、次に何をすればいいのかわからない。
「どうやってって言われても、おいら、火のソーサリエじゃないから、わかんねーよ!」
そう泣きそうな声を上げながらも、フレイはますます膨張した。
遠くから声が聞こえた。
「なんです? いったい何事です!」
監視係の水のソーサリエの声に違いない。ばたばたとこちらに近づいてくる。
これだけ騒いでいたら、もう見つかるのは間違いない。いや、それよりも、火を消さないともっとまずい。
フレイは燃え盛る髪を振り乱して叫んだ。
「ダメだ! アガタ! これ以上、水のソーサリエを近づけさせるな! おいら、対抗して爆発しちまう!」
とは言われても、燃え始めた本棚をどうにかしなければならないし、どんどん大きくなってしまうフレイを抑えなくてはならない。
アガサは、おどおどするしかなかった。
どうしよう?
どうしよう?
どうしよう!
アガサにはできることは何もない。
ソーサリエなんかじゃないから、フレイをどうすることもできない。
そう、ソーサリエなんかじゃないから。
フレイは、もうすでに人間の大きさになっていた。
それと同時に、火の手はどんどん大きく広がってゆく。
「アガタ! おいらを抑えるんだ!」
どうやって? アガサは泣き出した。
このままでは、図書館……いや、学校中に燃え広がってしまうかもしれない。
「ごめん! フレイ! 何もできない私を許して!」
アガサは泣きながら唐草風呂敷をフレイに押し当て、その上から抱きついた。
ソーサリエでないアガサには、火を小さくする方法なんて、それぐらいしか思い当たらない。
一か八か。それしかない。
「ばかヤロー! ねーさん焼死する気か!」
フレイの叫び声と同時に、頭に被ったタイツの溶ける音がした。
じりじりじり……と。焦げた臭い。そして、強い痛み。
う、うわ!
あ、熱い! 熱い! い、痛い!
火事の時。
フレイの炎は優しかった。
火からアガサを守ってくれた。
でも……それは、マダム・フルールをはじめとするソーサリエたちの力がフレイに作用していたからなのだ。
熱さで飛び上がりそうな体を、ますますフレイにしがみついて、アガサは目をつぶって堪えた。
ソーサリエではないアガサには、フレイの力を抑えることはできない。
自分の情けなさに涙が止まらない。
「いっそ、涙で弱ってよ! フレイ」
今や人間大のフレイの首にしがみついて、アガサは耳元で叫んでいた。
涙はフレイの肩や髪に落ちているはずなのに、ただ、じゅわっと蒸発するだけ……。
火はますます強くなる。
目を硬くつぶり、アガサは歯を食いしばって痛みを我慢した。
そして、何度も何度も、心に念じた。
お願い! フレイ!
私を助けて!