ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第1章 精霊現れる


(3)

 ブラウン一家は、確かに夫婦仲も悪く、平和な家庭とはいえない。しかし、だからといって最悪な家庭でもない。
 たいがい、人も家族も、見かけに寄らないものである。
 金持ちそうに見えるお隣さんでも、実はさほどでもない。ばあさんの煙草を怒る息子は、別に母親の健康を気遣っているのではなく、最近値上がりしている煙草の本数を気にしているのである。
 仲がよさそうな向かいの家だって、時々皿が飛び回っている。1ヶ月で消費するボーン・チャイナの量を考えると、おそらくお隣さんよりは景気がよいと思われる。
 そういう事実を並べてみると、ブラウン家は平均的な家庭といえよう。
 もちろん、アガサ他、ブラウン家の子供たちは、自分の家は最悪だと思っていたのだが。さらに言えば、火の精霊を連れた子供がいるということは、ブラウン家の不幸でもあった。

 その日は、アガサの12歳の誕生日であった。
 ブラウン家ではささやかなお祝いが行われた。といっても、ケーキを皆で食べたぐらいだが。
 母がせわしそうにして、仕事から帰ってきた。
 お料理も近くの総菜屋さんから買ってきたロースト・チキンが一番のご馳走で、あとは日頃と変わらないスープとパンである。
 父の帰宅はシフトの都合で遅れるが、それはプレゼントも遅れるということである。
 ドカンとテーブルに置かれたケーキは、近くのお菓子屋さんで買ってきたのだが、さぞや振り回してきたのだろう、見事な形に変形している。それでも、皆でろうそくを12本立てた。
 妹がケーキのクリームをなめてしまい、それを母が怒鳴り出すという、普段とあまり変わらない雰囲気に、アガサは苦笑した。それでも、12本のろうそくがケーキに灯ったときには、かなりうれしかった。
 ただ、吹き消そうと息を吸い上げたとき、ろうそくの周りを飛んでいる精霊に、ちょっとだけ嫌な予感がした。
 案の定、何度アガサが火を吹き消そうとしても、ろうそくは消えない。しびれを切らした家族全員が、揃って息を吹きかけてやっと消えた。
 そのときの、精霊のつまらなそうな顔を、アガサは見逃さなかった。そして、なんだかとても悪いことがおきそうな気がした。
 とはいえ、アガサは12歳の少女だった。
 父が抱えてきたプレゼントの大きな熊のぬいぐるみひとつで、すっかり精霊のことは忘れてしまった。
 大はしゃぎで抱きしめると気持ちがいい。毛が柔らかくて栗色をしていた。横で妹がうらやましげに見ている。物欲しそうに伸ばしてきた手を、アガサは叩いて止めさせた。
 


 夜、アガサは息苦しさで目が覚めた。
 なんだか頭がくらくらした。寝ぼけているせいかな? と思い、目をこする。少し目が痛かった。
 部屋の電気をつけてみると、なぜか部屋が白んで見えた。抱きしめていたはずの熊のぬいぐるみがない。たぶん、妹がこっそり奪い取ったのだろう。そういうことを平気でやってしまう子だ。
 アガサはスリッパを履き、ヨロヨロと立ち上がり、隣の妹の部屋へ行こうとした。なにやらおかしな臭いを感じ、鼻をこすった。そして、その手を何気に見て……。
「きゃ! な、何これ?」
 すっかり目が覚めてしまった。アガサの手は真っ黒だった。
 慌てて机の上にあった手鏡を覗いてみて、息を呑む。アガサの目は充血して真っ赤、鼻と口の周りは髭が生えたようにススで真っ黒だった。
 何が起きたのか、アガサにはすぐにはわからなかった。
 でも……いつもいるはずの精霊がいない。
 まさか? まさか? アガサは嫌な予感がした。
 慌ててドアを開けると、廊下はもう火の海だった。

 火事! それも大火事である!

 いつかは、やってしまうのでは? と恐れていたことが、起きてしまった。
 とっさにドアを閉める。どう考えたって、もうあの廊下を降りて階段を下りて、外に出ることはできない。となれば、窓から飛び降りるしかない。
 アガサは慌てて窓を開けた。
 とたんに、部屋の中に火が吹き込んできた。ドアが音を立てて飛び散った。外から新鮮な空気が送り込まれ、一気に火が回ったのだ。
 もう、アガサに残された道は、完全に二つしかなかった。
 窓から飛び降りて死ぬか? 火に包まれて死ぬか?
「そんなの、もう決まっている! 焼け死ぬよりは万が一にかけるわよ!」
 天井がバキバキと音を立てる中、アガサはパジャマ姿のままで窓に足をかけ、下を見た。
 ……高すぎる。
 おもわずめまいがした。しかし、火の手はもう背中に迫っている。
「あぁ、神様! イエス様! マリア様!」
 日曜日に教会へ行かない私を許して!
 そう心で念じると、アガサは窓から飛び降りた。