(2)
部屋にたどり着いても、イミコは何かにとりつかれたように呆然としていた。「いっそのこと、ジャンジャンに相談しようよ、ねーさん。4年生ならばパスも持っているし、火のつけ方を指導してくれるかもしんねーし」
フレイの言葉を聞いて、真っ赤になってしまうイミコであった。
これは、イミコのためにもそれがいいかも知れない。が。
「だだだだ、だめよ! あああああああの方を煩わせるなんて、ももももももう、できない!」
「だからさぁ、あんたじゃなくて、ねーさんがだから、ええと違う?」
フレイは、もうすっかりお使いに行くつもりである。もちろんアガサも異論はない。
そうして、フレイは飛んでいって、ジャン‐ルイと一階の食堂で夕食を共にとる約束を取り付けてきたのだ。
「しかも、階段の前で待っていてくれるってさ!」
エレベーターの魔法のためだったが、それは正解だろう。イミコは、もう気が遠くなっているようだったから、階段は当然使えない。
ジャン‐ルイは、先ほどの制服とは違って、実にカジュアルな格好で現れた。別人か? と思うほどである。
ミリタリーな柄のサーフシャツに、やや丈の短いジャンパー。膝に穴が開きかけたジーンズ。その格好は、彼の真っ赤な短い髪によく似合っていて、アガサはパンク好きの兄を思い出した。
そういえば、ジャン‐ルイはアガタという妹がいるって言ってた……と、アガサは思い出し、ますます彼と仲良くなれそうな気がした。
が。イミコはダメそうである。
彼女は、カチンカチンに固まってしまい、カエンが必死に魔力で支えている有様なのだ。
はたして、このような調子でイミコの恋は叶うのであろうか? いいや、それはないだろう……と、アガサは胸元で十字を切った。
だいたい、入学して一ヵ月。なぜ、イミコはジャン‐ルイを知らなかったのか? 総監生である彼を知らずに過ごしていること自体、イミコがどれだけ誰とも交流しなかったのか? が、わかるようである。
しかし、ジャン‐ルイのほうといえば、そのような彼女の性格を認識していない――というか、総監生でありながら、存在すら知らなかったのではなかろうか? イミコの態度に困っているようだった。
「あれ? びっくりさせちゃったかな? これ、僕の普段着なんだけれど……」
ジャン‐ルイがイミコの反応に気を使っているが、イミコはびっくり目のまま、瞬きもできないでいる。
「申し訳ありません。バーンの主殿。我が主は、実はややホームシックに陥っておりまして」
「あぁ、それは気の毒に……。ここも住めば都だけと、1年生は出入りできるところが少ないからなぁ」
ジャン‐ルイは少しだけ眉をひそめた。
「あー、にーさん。おいらたち、ひろーい場所を探しているんだけど、あったっけ? この辺で」
フレイがいきなりの質問をした。それは、アガサの【正しい火のつけ方の練習場所】である。
「1年生は厳しいね。ところで、そこで何をするんだい?」
「そりゃー、ねーさんの、むが……」
いきなりカエンがフレイの口をふさぎ、言葉を奪い取った。
「ラジオ体操です」
――らじお体操?
アガサにははじめて聞く言葉だった。が、カエンは大真面目に話し出した。
「日本では、国民総動員で朝6時にラジオを聴きながら、音楽に合わせて体操をするのです。老いも若きも、マウント・富士を仰ぎ見ながら、朝日に向かって今日の活力を補うのです」
「へぇー、知らなかったな。だから、オリンピックで金メダルが取れるんだ」
ジャン‐ルイは信じたようだった。実は、アガサも信じてしまった。カエンは、この大嘘をさらに続けた。
「それで、我が主はソーサリエの学校にはラジオ体操がないといって嘆き、今や体調も万全ではなく……」
「それはいけないね。僕から、今度、マダム・フルールにラジオ体操を提案してみるよ」
心配そうにジャン‐ルイがイミコの顔を覗き込んだので、彼女は真っ赤になって沸騰したヤカンの蓋みたいにせわしくコクコクうなずいた。
フレイはやっとカエンを振り切り、小声で怒鳴った。
(どーゆーことなんだよ! そのらぢおたいそーってんのは!)
(まだ、バーンの主殿が我々の味方とは決まっていませんよ。もしかしたら、マダム・フルールの回し者かもしれません。そうやすやすと、我々の秘密など打ち明けられません)
(お、そーいえばそんな気もしてきた……って、おいら、よっぽどテメーのほうが信じられん!)
フレイは真っ赤な髪をますます逆立てているが、カエンのほうはというと真直ぐなストレートヘアーに一筋の乱れもなかった。
ソーサリエの学校で、毎朝のラジオ体操が始まったのは、それからわずか1週間後のことである。