ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第2章 総監生ジャンジャン


(1)

 先に帰ったら? の一言を、何度も出しそうになる。
 アガサはイミコの手を引いたが、イミコの足は123段目の階段のところで、完全に止まってしまった。
 イミコは、カエンを使えば一飛びで部屋のある五階まで上がれるのである。しかし、彼女は強情だった。
「ごめんなさい」
 を連発しながらも、アガサと共に階段を上るという選択を諦めない。
「かえってアガタさんに迷惑をかけているとは思わないのですか?」
 などと、カエンが本当のことをいってしまうので、アガサとフレイは、つい、そんなことはない、がんばれと言ってしまうのである。
 アガサも疲れてはいるのだが、覚悟を決めた。
「私がおぶってあげるから! ほら!」
 そういって、階段にへたり込んでいるイミコに、身をかがめて背中を向けたときだった。

 目の前に、黒い尖った靴が見えた。
 そっと目でその先をたどると、赤毛をやや短く刈り込んだ黒いマントの少年が宙に浮かんでいた。
 マントの裏地はまるで火のように赤い。どうやら、この服装は3年生以上の火のソーサリエの制服らしい。同じマントを着た生徒を、何度か見かけている。
 アガサは、老人のようなへんな格好のままで、固まってしまった。
「君たち、そんなところで何をしているの?」
 少年はいきなり質問してきた。
 どうやら、授業か何かで吹き抜けを移動中、階段の途中で二人を見つけたらしかった。
 火のソーサリエらしい鋭い赤褐色の瞳だが、いかにも優しそうである。気さくな言葉であるが、どこか品がある。
 アガサもイミコも、すぐには返事ができなかった。
「バーンの主殿、実はわが主、イミコ・アイウチが階段途中で気分を悪くしてしまい、フレイの主殿が背負って部屋まで連れて帰るところでした」
 冷静に説明したのは、やはりカエンである。
 バーンの主と呼ばれた少年は微笑んだ。その肩先には、やはり火の精霊バーンがいたのである。クリクリとした愛嬌のある顔は、火の精霊としては珍しい。
 少年もきついところのない親しみやすい顔をしていて、どこかほっとする。
「では、僕が手を貸しましょう。か弱い女性が背負うには、この階段は長すぎますから。バーンとお二人の精霊がいれば、簡単なことです」
 そう言うと少年は、ぽんと指を鳴らした。

 そのとたん、不思議な空間が三人の精霊の間に浮かぶ。みるみるうちに空間は少年とアガサとイミコを包み込んだ。
 そして、いきなりの急上昇。あっという間に五階についていた。
 イミコはへたり込んだまま。
 そしてアガサは、あの腰をかがめた奇妙な格好のままだった。

「あーあ、ありがとう。にーさん。おいらのねーさんに代わってお礼をいうぜ!」
 フレイが興奮して叫ぶと、少年は軽く会釈した。
「マドモアゼルが困っていたならば、手を貸すのは男として当然です」
「わ、私もお礼を言わせてください! あ、ありがとうございました!」
 やっと硬直が解けたアガサは、ぺこっと頭を下げた。
 イミコのほうは、まだ固まったままへたりこんでいた。
「あなたたちはまだ、入学したばかりなんですね。僕は四年生のジャン‐ルイ・ド・ヴァンセンヌと申します。この火の学生寮の総監生をしています。困ったことがあったら、六階の1号室が僕の部屋ですから、精霊をお使いによこしなさい」
少年は、真面目な自己紹介をしたあと、いたずらっぽく笑った。どうやら本来は気さくな人らしい。
「……名前長いんで、気軽に、ジャンジャンとでも呼んでいいですよ」
 この学校で初めてであった親切な人である。
 アガサは感動して叫んでいた。
「わ、私は、アガサ・ブラウンです!」
 ジャン‐ルイの顔が、興味深げに微笑んだ。
「アガタ?」
 こくこくうなずくと、ジャン‐ルイはアガサに手を差し出して、握手を求めた。慌ててアガサはそれに応える。
「アガタって、僕の妹と同じ名前だ。なんだか他人とは思えないよ。どうぞよろしく」
「あ、あ、よろしくです! 一ケ月の仮入学ですけれど……」
「仮?」
「ま、まぁ……いろいろありまして……」
 言葉に詰まったアガサに、ジャン‐ルイはそれ以上の追求はせず、かわりにイミコのほうを見た。
「まだ具合が悪いですか? 手を貸しましょうか?」
 その言葉を聞いたとたん、イミコはばね仕掛けの人形のように跳ね上がった。それには、ジャン‐ルイも驚いたようだった。
「君の名前は?」
 さりげなく聞いた言葉なのに、イミコは返事もせず、口をしっかり結んでしまっている。
 この少年の何が気に食わないのだろう? と、アガサは一瞬思った。が、やがて答えは沸いて出た。
 イミコがしゃきっと立ち上がったので、彼は微笑んだ。 
「大丈夫なようだね? じゃあ僕はこれで」
 そういうと、ジャン‐ルイは爽やかな笑顔のままで、再び指を鳴らして上の階へと姿を消した。

「あぁ……素敵な人」
 アガサが思わず呟くと、その横でフレイが踊っていた。
「そうだろ、そうだろ! さすが、バーンの主だけあるぜ!」
 火の精霊が『さすが』というならば、彼は本当に立派な人物にちがいない。
 紳士だし、人当たりがいいし、それでいてどこか親しみやすいし。
「なぁ、ねーさん。どうせ恋をするならば、彼みたいな優しい男がいいと思うぜ!」
 フレイは、まるで説得するかのように言った。
 が。
 アガサは、そうは思わない。
 ひとつは、氷の王子様のほうが、容姿が自分好みだから。
 そりゃあ、ジャンジャンも素敵だけど、見てくれとの好みというものはけっこう大事なのである。
 もうひとつは……。
 はじめてこの世界で友人になってくれたイミコのためだ。
 彼女ときたら、すっかり呆然としたまま、再びへたりこみ、立ち上がれないでいるのである。
 これって……たぶん、恋だと思う。