(3)
フレイとカエンはいい。羽根があるのだから。問題は、カエンを使って一気に降ることができるだろう一階までの道のりを、ありがたくもイミコが付き合ってくれることである。
さすがに申し訳ない。でも不器用なのか、イミコは階段を下りるのが遅い。時々、待たなければいけないほどだ。
行きはいいが、帰りもこの階段を? と思うと気分が暗い。しかも、毎日? 出無精になりそうだ。
マダム・フルールの「努力と根性だけでは乗り切れない」という言葉を思い出し、自分の「努力と根性は一日ではならず」という言葉を噛み締める。
……努力と根性は毎日続けないと意味がない、と言い直そう。
イミコを待つおかげで、アガサは階段の装飾や壁に掛かった絵を堪能することができた。
どっしりとした重厚な感じがする階段で、木製であるけれども軋んだりはしない。床には茶色っぽい色の絨毯が敷かれていて、どうやって張り付いているのだか、たわみのひとつもない。
アガサの手にはやや幅がありすぎる手すりも、やや中央が膨らんだ太い円柱に支えられている。アガサが20人ぶら下がったところでびくともしないだろう。
アガサは寄りかかって下を見てみた。四角く切り取られた空間の一番下は、床材が大理石になっていて、白と黒の石で綺麗な楕円の模様になっていた。
上を向いてみると、今度ははるか遠くにブルーとグリーンの光が見えた。この階段の天辺が塔の一番上になるのだろうか? 外から見たときは、ただの天井にしか見えなかったのだが、どうやら色ガラスが組み込まれているようだ。
もしも光が差し込んだら……と、想像するとわくわくしてくる。
そんなアガサの鼻先を、生徒たちがすーっと魔法で上っていった。身を乗り出してぼけっとしていたら、ぶつかってしまうだろう。
それにしても、古い建物だということだが、魔法で維持されているのか、まったく古臭いところがない。
知っている建物で近いとしたら、宮殿だろう。あるいは教会か?
でも、アガサが知っている建物よりも、もっと古いとフレイは言っていた。
「下界にはさ、ソーサリエの文化が、年代を置いて伝わっているからね」
偉そうにフレイが説明する。
絵も重々しい。ややいかめしい顔をした人々の肖像画が続く。
翻訳されていない精霊語を読むことができないので、プレートが読めないのだが、フレイが教えてくれる。
「この絵は、かつての偉大なる火のソーサリエたちの肖像さ。ほら、アイツとコイツ。この二人は、えへん! おいらが付いていたんだぜ!」
――結局は自慢したいだけか。
延々と階段を下り続けて、やっとプロフェッスール・モエのいる教官室にたどり着いた。
モエはいかめしい顔をした老婆であり、影で生徒たちからは『モエバー』と呼ばれている。つまり、モエばあさんという意味である。
しかし、本人はそれを人気のバロメーターとでも思っているか、全く気にする様子もなく、常にいかめしいままだった。
ごま塩のような髪をきっちりと結い上げていて、筋が浮いているだろう首は、常にハイネックのブラウスのボタンが上まで止まって皺だけが見える。骨ばった指先は、せわしなく眼鏡を持ち上げたり外したりを繰り返していた。
小さい教官室は、四方の壁を本棚で覆われていて、しかもその中にはぎっしりと生徒たちの資料が収まっていた。誰でも勝手に閲覧できそうに見えるが、本棚には火の魔法がかけられていて、モエ以外のものが触れようものなら、大火傷間違いなしだった。
時にその事実を知らないものがいて負傷者が絶えないので、本棚のガラスには、しつこいくらい『危険』の文字が躍っていた。さらにその下に小さく『よるな、さわるな、弾けて飛ぶぜ!』とも書いてある。
しかし、残念ながら英語しかわからないアガサには、この『火の精霊文字』が読めない。フレイがいなければ、大火傷したことだろう。
「さて、困ったことに、アガタ・ブラウン」
モエはいきなり老眼鏡を額の上に持ってゆくと、本題に入った。
「資料を見せていただきましたが、あなたはこの学校の授業を受講できるレベルに達していません。あえて取れるものは……体育の授業ですね」
「はぁ……」
覚悟していたとはいえ、学校で学べるのが体育だけとは、それは困った問題である。確かに下界では、学校の授業がすべて体育だったら……と思ったことはあったが。
「体育は、精霊使いが精霊を頼るために起こる運動不足を補うためのプログラムです。もっとも、あなたには必要なさそうですが」
全くそのとおりである。
232段の階段を毎日上り下りさせられて、受ける授業が体育だけとは、それこそド根性ものである。
「それと……。空中歩行の授業ならば受けられます。これは、ソーサリエならば、当・然、誰でもできるはずの業ですが、時に高所恐怖症の生徒がいて、たまに試したことのない子供もいるもので」
つまり、本来ならばありえない授業だ、と、モエバーは言いたいのだ。
「ちっち、相変わらず性格わる……」
目の前を飛びながら暴言を吐くフレイを、思わずアガサは捕まえて後ろ手に隠した。
「はぁ、ありがとうございます。プロフェッスール・モエ。ところで……あの、ろうそくに火をつける魔法なんかの授業は……」
「そんな初歩的な授業があるはずはありませんでしょう? まさか、アガタ・ブラウン。それができないとでも?」
しわくちゃな顔に埋もれた小さな瞳が意地悪く光った。
「い、いえ、そんな。できます! あの、1ケ月後には……」
アガサは、慌ててニコニコ笑って見せた。
どうやら、授業によって火をつける方法を学ぶのは無理らしい。