(4)
お風呂上りでさっぱりしたアガサは、冷たいジュースとエビセンをいただいていた。緑茶は苦くて駄目だった。
パクパク口を動かすアガサの横で、イミコはもじもじウロウロしていたが、意を決して口を開いた。
「あの……アガタさん、もしかして、お名前……こうじゃありませんか?」
そういうと、イミコは紙を取り出して字を書いた。
とても繊細な感じの美しい筆記体である。見たこともないような、まるでタイプされているみたいな。
しかも、イミコの書いた綴りは、アガサには妙に懐かしく感じるものだった。
【Agatha】
「うわ! そう、そのとおり。よくわかったわね!」
そういうと、イミコは恥ずかしそうに顔を伏せた。
「だって……私の名前も、英語風に書けばこうなんです」
【Himiko】
ヒミコ。
アガサは苦笑した。
さすが、マダム・フルール。見事にHを抜いている。しかし、なぜ、自分が苦手だからといって、名前を勝手に変えるのだろう?
「あ、アガタさんは知らないのですね。実は、ここの言葉は、すべてマダム・フルールの魔法により、瞬時に翻訳されているんです」
そういえば、日本人であるイミコとイギリス人である自分がすらすらと会話できることも、不思議なことである。フレイとも突然話せるようになったのも、不思議だった。
「マダム・フルールは、Hが嫌いらしいんです」
「それで、ヒミコがイミコに……あんまりね」
というアガサの発音も、翻訳により「イミコがイミコに」になっているのだが、アガサ自身は気がつかないのだ。
アガサはここまで来る間のフレイとのやり取りを思い出していた。
いくら、アガタをアガサに修正しても、これじゃあフレイが覚えないはずである。
あれだけいらいらして怒り続けたけれど、私って、自分でも【アガタ】って言っていたわけ?
何だか私、それってばかみたい!
そう思うと同時に、意外と忍耐強いフレイのおおらかさに、今更ながら感心するアガサであった。
「あ、でも、4大精霊語をマスターすると、マダムの訳なしで会話ができるんですよ。ですから、私もちょっとばかり話せる言葉があるんです」
腕を組んで考え込んでしまったアガサをみて、機嫌を損ねたとでも思ったのか、イミコは慌てて付け足した。
「え! たった1ヶ月で4つも言葉を覚えたの?」
アガサは驚いてしまった。
実は、この消極的な少女、意外と天才なのかもしれない。
今度は首がもげるのでは? と、思う勢いで、イミコはぶるんぶるんと頭を振った。
「いえ、ほんのすこしだけなので……でも、アガタの名前の正しい発音ができるかもしれない……。やってみるわ!」
そう叫ぶと、イミコはいきなり、うーんと力み始めた。
顔が真っ赤になって、髪が逆立つ。顔が……まん丸になってしまった。
ちょっと大丈夫なのか? と思った瞬間。
「アガさ!」
いきなり、イミコが叫んだ。
そのとたん、空気が抜けた風船みたいにイミコの顔が縮んでいった。
逆に、アガサの目はまん丸になったままである。ついでに口も開いていた。
イミコは、ほっと息をつき、そして微笑んだ。
「どう?」
「う……無理しないで。アガタでいいわ」
こんな苦しい思いまでして、正しい名前を発音してくれようとするイミコの気持ちがうれしかった。
はっきりしないし内気なところはあるけれど、心優しい女の子であることは間違いない。
でも、彼女はやはり外国人だった。
THの発音はSに置き換わっていただけである。
どうやら……。
マダム・フルールにH抜きの発音を許してしまったとたんに、アガサはアガタとなってしまったのだ。
この学校では、4大精霊の言語をマスターした者でない限り、アガサという名前を呼ぶことはできない。
当然、火の精霊たちは『アガサ』とは発音できないのだ。
いや、たぶん水の精霊も風の精霊も土の精霊もそうだろう。
この世界の、世界中の誰もが、『アガサ』を『アガタ』と呼ぶのだ。
「アガタ……かぁ? なんだか別人になっちゃったみたい」
別世界に別人の名前である。
自分のいるべき場所とは、少しばかり違うみたい。
アガサは、イミコが書いてくれた自分の名前のHの部分に指を当ててみた。
【Agat a】
やっぱり馴染まない。