(3)
イミコは、カエン用の特別なろうそくをフレイのために貸してくれた。ガラスのコップの中に蝋が詰まっていて、燃しても蝋がたれず、しかも長持ちするという優れ物だった。
しかも、かすかに甘い花の香りがして、部屋全体が心地よい空間になる。
フレイときたら、コップの端に腕を出し、足を組んで片足を反対端だしてくつろいでいる。すっかりリフレッシュしたようだ。
「別名・ろうそく風呂です」
にやりとカエンが微笑んだ。
イミコが、恐る恐るお風呂に反応した。
「あの……アガタさんも、もしかして、バスにつかります?」
それよりも、まずは何か食べるもの……と、アガサは思ったが、あまりにもイミコがお風呂を勧めるので、ぶらりとバスルームに入った。
そして……。
「ぎゃあぁぁぁぁ!」
思わず自分の姿を見て、悲鳴を上げてしまった。
その声のボリュームには、ろうそく風呂でくつろいでいたフレイも、驚いてどっぷり蝋に埋没するくらいだった。
たしかに、まだパジャマであることは知っていた。
でも……顔が真っ黒なことは忘れていた。
鼻の下のススは、泣いて鼻水を出したことで、まるで鼻毛が飛び出しているかのような汚い筋になっていた。口のまわりのススも、まるで落書きした無精髭のようである。
血走った目の周りも、すっかりクマができていてパンダのようだし、しかも吐いたゲロが固まって髪の毛にこびりついている。
――この姿で私! あの王子様に会ったんだわ!
これじゃあ、驚かれてしまっても、冷たく無視されてしまっても、手を差し伸べられなくても、仕方がないじゃない!
アガサの顔は、恥ずかしさで熱くなった。
おそらく、水で顔を洗ったとしても熱湯になってしまうほどの熱である。
――もう絶対にあの人と顔なんかあわせられないっ!
ちなみにマダム・フルールとの面接もこの状態であったことは、もうしっかり忘れている。
イミコが、最初に驚いた顔をしたわけも、ひたすらお風呂を勧めたわけも、これでやっとわかった。
「すぐに、言ってくれればいいのに……」
と思いつつ、アガサはすぐに考えを改めた。
日本人は、きっと人に恥ずかしい指摘をするのが嫌いなのかも? それは彼女なりの優しさなのだ……と、理解してあげなければならない。
しかも、イミコは間違いなく対人恐怖症の気がある。知り合ってばかりのアガサに、ずばりと言えない性分なのだろう。
疲れる性格ではあるけれど、確かに境遇は似ているのだ。
きっと仲良くできるだろう……。
いや、仲良くしなければ!
そう固い決心をして、アガサは真っ黒な顔をゴシゴシと洗った。
その頃、おなかがすいた! を、連発するフレイの願いを聞いて、イミコは軽く食べられるものを探していた。
といっても、エビセンしかないのだが、アガサの口に合うだろうか? などと、首をひねっていた。お茶も緑茶しかないのだが……。
イミコは、あまり間食するほうではなかった。体質的に、さほどカロリーを必要としない彼女は、アガサが好きな甘いものを持ってはいなかったのである。
「私がアガタさんだとしたら……」
カエンがろうそく風呂の淵に腰掛けて話し出した。
「洗って消えるようなススのあとで悲鳴をあげるよりも、吸い込んでしまったススのことを心配しますね。
いったいどのくらいの脳細胞を殺してしまったことでしょう。その上、肺は煙草10年分のタールで汚染されたと思いますよ」
フレイは、ぼんやりしながら、でも少し微笑んだ。
「むしろ喜ばしいな。これで、あの男のことも諦めてくれれば、万々歳ってもんだ」
「え? あの男の人って、どなたですの?」
お湯を沸かしながら、イミコが聞いた。
口が滑ったというように、フレイは蝋の中に身を滑り込ませてしまった。
カエンはイミコの側に飛んでゆき、火力をあげる手伝いを始めた。それで、突然忙しくなったイミコは質問の答えを追求しなかった。
内心、フレイは思っている。
アガサのことを思えば、【ひげづら失恋】は本当に喜ばしいことである。
おそらく、そのせいで脳が軟化しても、肺がんになったとしても……ファビアンと恋に落ちるよりは、マシってものだろう。
水のソーサリエなんて、絶対に近づいちゃいけない。
それに……どうも、あのファビアンは気に食わないのだ。
どうしてか知らないけれど、あの青い目を見ていると、深い深い恨みにも似た感情が沸き起こってくる。
こんな嫌なヤツなんて、一万年前まで振り返っても……思い出せない。