(5)
火をつけることに失敗して、完全に入学はなくなったと思っていた。あまりにあっけないマダム・フルールの心変わりに、アガサは驚きながらも素直に喜んだ。
目の前が急にぱっと明るくなったような気がして、1ヶ月後のことを考えることは、すぐにはできない。
とりあえず、この学校にいることができて、フレイを救うことができたらしくて、それだけで天にも昇る……いや、もうここが天空なのであるが、そのような気持ちになったのである。
「ありがとうございます!」
しゃきっと立ち上がり、挨拶をする。
「礼儀正しい生徒は大好きよ」
にっこりと、マダム・フルールも微笑んだ。
「あなたの部屋はフレイが案内……って、大丈夫かしら? まぁ、そのろうそくをあげますから、そのまま連れていってくださいな」
火にあぶられて気がついたフレイが、弱々しくもお礼をいう。
「感謝……。マダム……」
ろうそくの蝋をたらさないように気をつけながら、アガサは学長の部屋を出て行った。
その後、学長室でかわされた会話を、もちろんアガサは知らない。
「どう思います? オール」
マダム・フルールが飛び回っている水の精霊に話しかけた。
精霊は、長い睫毛をばたつかせながら、青い髪に指を通した。
「今の少女ですか? 1ヶ月間は楽しませてくれそうですね。私も働き甲斐がありますよ。あの調子じゃあ学校を焼きかねませんから」
マダム・フルールは、椅子に腰かけてため息をついた。心労この上ない、という響きがする。
「ご心配なく、マダム。どうせあの子は1ヶ月後には諦めて下界に戻りますよ」
ろうそくが消え、カーテンがすべて開き、まぶしいほどに強い光が部屋に差し込む。天空は常に青空である。
「私が気になっているのは、アガタ・ブラウンのことではなく、ファビアン・ルイ・デ・ブローニュのほうです」
水の妖精は、その名前を聞いて、机の上に降り立った。
そこに、アガサについての資料がある。
【ソーサリエとしての血筋になく、入学を不許可とするべき】とあり、その下には詳しい彼女のデータがあった。
「ちょっと途中で気が変わってね。アガタ・ブラウンを仮入学させてみたのは、ファビアンの行動が気になって仕方がなかったからなのよ」
水のソーサリエであるファビアン・ルイ・デ・ブローニュは、下界に戻ればロアール川沿いに城を構えるフランス貴族、学校にあればソーサリエの学校始まって以来の秀才である。
さらに端正な顔立ちとあっては誰もが放っておかない。ミーハーな女生徒からは【氷の王子様】とすら呼ばれている。
非の打ち所のない貴公子。生粋のソーサリエ。いずれはすべての精霊の力を持ち、マダム・フルールの跡を継げるのでは? と評判の生徒だ。
「水の精霊使いとして常に優秀で真面目な彼が、いったいどうしたのか心配なのですよ。こそこそと泥棒のような真似をするなんて……。あなたは何か知らないの? 彼付きの精霊・レインには何か聞いていない?」
水の精霊・オールは小首をかしげた。
「何も……マダム・フルール。ですが、探りは入れてみます」
「ええ、お願い……」
マダム・フルールは小さく息をついた。
優等生の泥棒行為。
学長がちょっと部屋を空けた隙に、ファビアンは部屋に忍び込んだ。そして机の上を物色し、ある少女の資料を、そっくり持ち出そうとした。しかも、その少女・アガサ・ブラウンは【ソーサリエではない者】という、前代未聞の存在なのだ。
――絶対に何かある。
マダム・フルールは、現行犯でファビアンをつかまえて尋問したが、彼は一言も何も言わなかったのである。
きりっと冷たい目のままで、ただ一言を繰り返すだけだった。
「申しわけありません」
強情さも一級品なので、仕方がなく自室に戻るように言ったのだが。
「この書類が盗まれてしまっていたら……あの子の正体を見抜けずに、簡単に入学させていたわよねぇ。としたら、ファビアンはあの子を入学させたかったのかしら? そもそも、あの二人、知り合いなのかしら?」
再び書類に目を落とし、マダム・フルールは首をかしげる。
「イギリス……うーん。それも父親はしがない工場の労働者。フランス貴族とは縁遠いわ。どう考えても、アガタ・ブラウンとファビアンには、知り合いの線はなさそうねぇ」
それに、帰りがけの様子だ。彼は転んだアガサに対して、何の興味も示さなかったではないか?
ますますもって、謎である。
しかし、このマダム・フルール。実は大のミステリー好きなのである。
当然ながらアガサ・クリスティの大ファンであり、彼女の小説を66本読んでいる。(ただし、アガタと発音してしまうのだが)
この謎を解き明かす気持ちは大有りで、すでに気分はミス・マープルになっていた。
ゆえに、あっけなくアガサの仮入学を許可したのであった。
=第1章 了=