(4)
マダム・フルールは、よろよろと後ずさりした。そしてついに、机に体を預けてしまった。「ああ、ひどいわ。THの発音を、こんな小娘に指摘されるなんて……」
涙目に白いハンカチを取り出し、チーンと勢いよく鼻をかむ。
「いえ、THじゃなく、私は……」
アガサはなんだかめまいがしてきた。
どうも、マダム・フルールと自分では、やや感覚にズレがあるらしい。
「マドモアゼル。ソーサリエには、99%の努力が必要ですが、それも1%の能力があってのことなのです。100%の努力でなせるほど簡単なものではありません」
鼻がむずむずするのか、マダム・フルールはやや上を向いて、フゴフゴと話した。
「ア、アガタで結構です」
マドモアゼルという言葉が、どうも自分に似合わなくて、アガサはやむなく譲歩した。
「あなたの譲歩に感謝いたしますわ」
マダム・フルールは、机の引き出しから薬らしきものを出して、鼻をシュパシュパした。
「私、どうもHを発音すると、鼻がもぞもぞしますのよ」
「は、はぁ……」
アガサは言葉を合わせながらも、内心はこう思った。
(一度もHを発音していないじゃない!)
マダム・フルールは、そのことには何も触れずに再び風の精霊に命令した。
「それでは、エアリア。お願い」
風の精霊が、再びアガサに近寄った。アガサは慌ててその場から飛びのきながら怒鳴った。
「マダム! 私、帰りません! フレイと一緒にここで100%、いえ、120%努力します!」
あまりにも大きな声だったので、風の精霊エアリアは驚いてしまい、つむじ風にまかれたかと思うと、掌サイズになってしまった。
それにはさすがのマダムも、今度こそ本当に驚いたらしい。
「まあ、驚き! あなたって結構根性がありそうね」
髪の毛を火のように逆立て、つり目をますますつり上げて、仁王立ちになって、アガサは宣言した。
「能力不足は根性でまかないます!」
マダム・フルールは、慈悲・慈悲・慈悲という笑顔を見せると、ぱちんと指を鳴らした。
その瞬間、どうしたらいいのかわからずにうろうろしていた風の精の姿が消えた。
「わかりました。あなたとフレイに特別にチャンスを与えましょう」
その時、フレイはろうそくの火の中で、ぼんやり消えゆく自分の未来を思って憂鬱になっていた。
しかし、マダム・フルールの一言を聞いて、俄然元気を取り戻して、ろうそくから飛び出してきた。
再びアガサの周りを一回りして、肩に止まると囁いた。
「アガタ、ありがとう。大好きだよ」
ほっぺに、ちゅっ!
それは、フレイにしてみると、心をこめたキスだったに違いない。が……。
「きゃー! 何するのよ!」
ものすごい勢いで、アガサは手でフレイを払った。
不意をつかれたフレイは、勢いよく飛んでいって、壁にぶつかり、ベチョ! と、惨めな音を立てた。
「ひ、ひ、ひどい! おいらの心をこめたくちづけを!」
傷心のまま、フレイは大声でひいひい叫んだ。
「ご、ごめん、だって、熱かったんだもの!」
アガサは慌てて弁解した。
そう、ちょうど頬にマッチを押し付けられたようなものだったのだ。反射的に手を出しても仕方がない。
マダム・フルールはその様子を見て、くくくと笑った。
「あなたの【根性】で、それがどうにかなるものなのかしら?」
どうやら、チャンスというものは入学を許可するというよりも、マダム・フルールのお遊び的要素のほうが強いらしい。
「それで! 何をすればいいんですか!」
やけくそになって、アガサが叫ぶ。
マダム・フルールは、まるで何も聞こえなかったように、フレイがいたろうそくの火を消した。
「火の精霊使いならば簡単なこと。このろうそくに火をつければいいのです。つけられましたら、あなたの入学を許可しましょう」
まだ、煙が上がっているろうそくをマダム・フルールはそっと持ち上げた。
アガサは、大きく息をすった。
今までのことを思い出す。
たくさんの小火騒ぎ。それは、アガサが火のことを想像するだけで、フレイがお願いされたと思い込み、火をつけていたのだ。
だとすれば、言葉が通じるようになった今、ろうそくに火を灯すことなんて、簡単過ぎることだと思われる。
意識を集中。火をイメージ。そして……。
「火の精霊・フレイ! 願い! ろうそくに火をつけて」
ダーン! という激しい音と白い光。
次の瞬間、マダム・フルールの声が聞こえた。
「水の精霊・オールよ! 出でて火を収めたまえ!」
ザザザザ……。
いったい何が起きたのか、アガサにはわからなくなった。
そのくらい激しい衝撃があったのである。
しかし、今、目の前には微笑むマダム・フルールと、そのまわりを飛ぶ青い髪をした水の精霊がいるだけである。掌サイズのそれは、アガサと目があったとたん、ウインクした。
部屋の様子は何も変わらない。カーテン越しに柔らかな光が注ぎ、光を補うろうそくの光が灯っているままである。
しかし、マダム・フルールが指し示したろうそくにには火が灯っていない。
ゆっくり、起きたことを思い出してみる。
たしか、お願いをした瞬間に……フレイが何か火の玉のようになって、それも大きく大きくなって……。
爆発して、あたりを燃やし尽くしてしまうのではないか? と思われたとき、マダム・フルールが呪文を唱えて……。
そう、水の精霊が現れて、火の玉を水の塊で包んでしまったのだ。
で……フレイは?
アガサは慌ててあたりを見回した。相棒はいない。
最後に自分の足元を見た。
そして、そこにぐったりと倒れているフレイを見つけた。
「ちょ、ちょっと! あなた、大丈夫!」
慌ててしゃがみこみ、両手で包み込む。
ぐったりとしていて、死んだよう……。心なしか、髪の色も色あせていて、目も硬く閉ざされている。
涙が出てきた。
――私が知識もなく、精霊を使おうとしたから? だから、フレイは死んじゃったの?
マダム・フルールがろうそくを持ってきた。しかし、それはマダムが灯したものだった。
「アガタさん、あなたの涙は、フレイをますます弱らせますよ」
そういうと、マダム・フルールは指でフレイをつまむと、ポンとろうそくの火の中に入れた。
「もう、お分かりになりましたでしょう? 努力と根性だけでは、この世界を渡ってゆくことはできないのです」
ぐったりとしたフレイ。かわいそうに……。
間違って私を選んでしまったばかりに、こんな苦労を背負い込むことになって、しかも、もう消されようとしている。
――12年間も一緒にいたのに、それでいいの?
いいや、それでいいはずはない。
私は、ソーサリエとして生きるって決めたのだから!
「努力と根性は一日ではならず! です!」
アガサはマダム・フルールの言葉に反論した。
きりきりとつり上げる目には、かすかに涙も浮かんでいたが、ぽろりと落ちることはなかった。むしろ、めらめらと根性の炎が燃えている。
「そうですね」
意外なことに、マダム・フルールはにっこりと微笑んだ。
「よろしいでしょう。あなたには1ヶ月の仮入学を許します。1ヵ月後、再テストをします。そのときまでに、安全にろうそくに火をつけられれば、正式に入学を認めましょう」