ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第1章 精霊現れる


(1)

 現れた……というものではない。
 ソイツは、アガサが物心ついた時から彼女の側にいたのだから。そして、たった今もアガサの目と鼻の先を、チラチラ羽を揺すぶりながら飛び回っているのだから。
 じっと観察しているアガサの目は、おもわず寄ってしまう。それぐらいの至近距離である。
 彼は――といっても性別がわからないのだが――真っ赤なボサボサな髪をしていて、そのせいで頭が巨大に見える。
 とはいえ、非常にスレンダーなボディはバランスがいい。まるでバレリーナのようだ。バレエというたとえは、けっこう的を射ている。なぜって、彼は踊っているようにも見えるからだ。
 着ているものも、まるでダンサーのタイツのようであり、肌なのか服なのかわからない。首の辺りはアイボリーの肌色なのだが、下に行くほど赤みが増し、つま先の辺りはもう真っ赤である。
 背に生えている羽は透明で、かすかに筋状の模様が入っているのだが、すごい回転数で振動しているらしく、飛んでいる間は何も見えない。
 アガサは、ソイツを【精霊】と呼んでいるのだが、本当は妖精なのかもしれない。
 わずか掌サイズしかない大きさで、時々何かを言いたげに、アガサに真っ赤な瞳を投げつける。ドキッとするほど鋭い視線だ。
 だから、アガサはのけぞるのだ。
「きゃ! な、何よ!」
 叫んで椅子を蹴飛ばして……そして、先生に怒られることになる。
 そう、今は授業中である。

 アガサは11歳。
 真面目な生徒であるにも関わらず、先生の評価は最悪である。なぜなら、彼女は変わり者だからである。
 いきなり叫ぶ困った生徒に、先生はけして優しくはない。
「アガサ・ブラウン。君は今、何をしているのか、わかっているのかね?」
 数学の先生は、ひげを撫でながらアガサに近寄る。
 クラス中の生徒の前で怒られるのは、何度経験しても恥ずかしい。本当に止めて欲しい。
 アガサは自分が悪いとは思っていない。もちろん、声を上げたのはよくないとは思う。でも、真面目に授業を受けたくても、なぜか目の前を精霊が飛び回り、アガサの集中力をそいでしまうのだから、不真面目だと思われるのは心外である。
 延々と続く先生のお説教を鵜呑みにしてしまったら、アガサはとんでもない悪い子になってしまい、人生を生きてゆく価値もない少女に成り下がってしまう。それじゃあ、あんまりである。
 仕方がないから落ち込まないように別のことを考える。
 その技を身に付けたのは最近で、それまでは言葉の意味を真剣に受け止めて、何度も死にたくなったものだ。自分が生きていること自体が、社会悪のように思えてしまうのだから。
 最近読んだ本に書いてあった。ありがたい説教を聞き流すことを【馬耳東風】【馬の耳に念仏】というのだそうだ。
 そう思い出したとたん、先生の顔が馬に見えてきた。アガサは笑いたいのを必死にこらえた。しかし、真面目に説教を聞いていないことは見抜かれたらしい。
「君は、いったい何を考えているのだね!」
 苛々と怒鳴るほどに、先生は髭を激しく撫でつける。
 そんなに撫でたら、摩擦で火がつくんじゃないかと思うほどに。
 と、考えたところで、アガサは真っ青になった。
「ま、まずい!」
 が、すでに遅かった。
「う、うわわわ!」
 先生が突然飛び上がり、髭を撫でていた手を大きく振り回した。
 アガサの周りを飛んでいた精霊が、先生の手に止まったのだ。そのとたん、先生の髭に火がついたのである。
 髭はかすかに縮れただけで、火傷もなく、教室に焦げた臭いがたちこめただけだったが、先生の頭は火がついたよりも熱くなった。顔はすっかり茹蛸である。
「アガサ・ブラウン! 君は立っていなさい!」
 別に、アガサが先生の髭に火をつけたわけではない。しかし、回りからは笑い声さえ起きている。
 アガサはしぶしぶ立ち上がる。
 なぜ、アガサが怒られなければならないのか、クラス中の誰もが納得していた。アガサがいるところ、時々火にまつわる事件が起きていたからである。

 廊下に立ちながら、アガサはため息をつく。
 外はじめじめとした天気で、気分も憂鬱になる。古い学校からは、何かしらカビ臭いにおいがする。
 相変わらず、精霊はアガサの前を飛び回っていた。
 火のことを考えたのは、大失敗だった。頭に炎のイメージが浮かんでしまうと、この精霊はとんでもないことをやらかしてくれる。
 過去にも小火騒ぎを何度も起こしている。
 学校を燃やしそうになったこともあるし、庭木を燃やしそうになったこともある。
 いずれは本当の火事を起こすんじゃないか? と、ハラハラなのだ。
「ねぇ……」
 アガサは話しかけてみる。
「あなた、なぜ、私の近くにいるの?」
 精霊は目をぱちくりさせて一瞬動きを止めるのだが、まるで何もなかったかのように、ブンブンとアガサの前を飛び続けるのだ。
「はぁ……」
 アガサは再びため息をついた。

 小さな頃、アガサは誰にでもこの精霊が見えているのだと思っていた。
 しかし、精霊の話をするたびに、大人たちはアガサを変わった子供だと言って、気味悪がった。
 次にアガサは、誰にも見えなくても、子供には皆、精霊が付いているのだと思った。
 教会のシスターも「見えなくても神様は常にお側に」と言っていたし、実際に友達のなかには「精霊を持っている」と打ち明けてくれた子もいた。
 しかし、それも少し成長してきたら、嘘だとわかってしまった。
 シスターのいう精霊や神様は、アガサが見ているソイツとは違いすぎるし、精霊を持っているといっていた友人は「まだ子供だったから、そう信じただけよ」などと言う。
 8歳を過ぎた頃になって、アガサはやっと理解した。

 ――精霊に付きまとわれている女の子なんて、世界中で私一人なんだわ。