6)ラ・メール
翌日、口利けぬ侍女がいなくなったことを知った王子は、船を止め、小船を出して、付近の捜索をさせました。船長が航海の遅れを「恐れながら……」と訴えても、王子は聞き入れませんでした。
誰しもが無駄だと思う作業を三日間も行わせたのです。
しかし、口利けぬ侍女を見つけることはできませんでした。
「まるで海の泡にでもなったよう……」
悲しそうに海を見つめながら、王子は言いました。
「北の海の青く冷たい世界には、人魚が住むと言われています。もしかしたら、あの方は海から来たのかも知れませんわ。あの方からは、常に海の香りがしましたもの」
横で王女が言いました。その手は、優しく王子の腕に添えられていました。
王子は、遠い目をして言いました。
「私は、あなたに助けられる前、本当は一度死んだのです。でも、誰かの冷たい腕が、私を励まして、死の海から命の岸辺まで届けてくれました」
それは、あの人かも知れない……と、言おうとした時、王子の目から涙がこぼれました。
あの日、海岸に一人の少女を見ました。
知らない言葉で歌を歌っておりました。いえ……王子には、その意味するところがわかっていたはずなのです。なぜなら、同じ癒されぬ心を持っていたのですから。
――海という定められた世界にでしか生きられない悲しみ。
王子が恋の悲しみだけに囚われていなければ、真実に気がついてあげられたのかも知れません。お互いをもっとわかりあえれば、悲しみを癒す方法を見いだせたかも知れません。
「私がもっと強ければ、きっと言葉がなくてもわかりあえたはずです。あの歌を歌っていたのは、きっとあの人です。私だけが、あの人を救えたかも知れないのに……」
それは、単なる憶測でしかありません。なぜなら、恋はたった一人の勝者しか選ばない残酷なものですから。
しかし、王女は王子の肩を抱き、そっと体を寄せました。
「きっと……そうに違いありませんわ」
船は、大きく傾いた海の上にありました。
舳先には、水神の遣え人であるセラの像。荒波を切り抜けるために彫られたものです。
何本もそそり立つ帆注の先端には空神に遣えるエアの像。風に恵まれることを願ったものです。
そして甲板の手すりには大地のガイアの像。いつか、安全に大地に帰れる日のことを祈ったものです。
それらの像には、人々の希望がそれぞれ刻まれておりました。
赤と白と鮮やかな青の王国の旗が潮風になびいておりました。
国では多くの国民が、平和の象徴である妃の到着を待ちわびていることでしょう。
王子は、頬に風を……大気を感じました。
――私は常にあなたのそばに……。あなたの航海の無事を願っております。
口利けぬ侍女の声を聞いたような気がしました。
最後まで清らかな水のような……そんな心を持った人でしたから、王子も侍女に心を許したのです。優しくも美しい心ゆえに、王子の心は救われたのです。
王子は涙を拭き、王女の肩に腕を回しました。
ここに留まっていてはなりません。これからは、王女と共に歩む長い旅路が待っているのですから。
二人の旅路はまだ始まったばかりであり、この後待ち受けているものは、時に荒波が渦巻く大海でありました。幸せも不幸も、喜びも悲しみも、すべてが目の前に広がっており、それを乗り越えてゆくのです。
「錨を上げよ! 国へ向かう」
船の先端で、波が泡となって砕け散りました。