ベル
2003年6月20日 掲載

草村 悠太
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ベル

 話には聞いていたが、まさか本当に全身黒づくめだとは思わなかった。
 ピカピカに磨かれた黒いローファー。きちんとタックの入った黒のスラックス。黒のワイシャツ、黒のネクタイ、黒のスーツ。
 ご丁寧にも、きれいに整えた黒髪の上へ、黒いハットをあみだに載せていた。
 こちらを見つめる落ち着いた瞳も、蒼い海底で太古の水に洗われたムール貝のような、艶やかな漆黒。
「分かりやすくていいが、少し時代錯誤じゃないのかね?」
 問いかけた私に、黒づくめの彼は静かな声で答えてきた。
「世界には、決して変わらないものがある」
「そのうちの一つが、君というわけか」
 お気に入りだったネクタイを締めながら、私は含み笑いをもらした。
 のぞき込む鏡の奥で、彼がおだやかに私の方を見ている。
 光の加減で艶めいた黒にも映るボルドーレッドのスリーピースに身を包み終えると、私は彼の方に向き直った。
 軽く肩を回して全身をなじませて、
「それでは、行こうか」
明かりのもれてくる戸口に立った彼を促す。
 黒づくめの彼は、かすかな衣擦れとともに、きびすを返した。
 深い海の底のように静まりかえった私の家に、彼のローファーの音だけが、しっとりと響く。
 故郷の霧深い森の中で、木こりが振るう斧の音を聞いているような、そんな気分が私を包んだ。
 妻が寝ている寝室を歩みすぎ、数十年前に独立した子供達がかつて使っていた空き部屋を、一つ二つと過ぎていく。
 階段を下りて、庭に面した側が全てガラス張りになっている、リビングへ。
 私が望んで据え付けた暖炉の側には、いつもルアーの手入れをするときに座っていた、ソファ。
 サイドボードの上に、母と、妻と、子供達と、幾人もの仲間達の写真。
 ガラス窓の向こうには、夜風にそよぐ庭。
 凛と眩い月。
 ふと、先に立って歩く彼が、口を開いた。
「広い家だな」
「そうかね」
「人間が人間に与えられる幸せが、例えばこういう居心地の良い家であるのなら、一途に経済活動へ邁進するのも悪くはない」
「こういう幸せが金で買えるなら、がめつくなってもみようじゃないかってことだな」
 笑いながらそう言う私に、彼は澄んだ瞳を向けてくる。
「未練はないのか」
「なくはない」
 答えながらも、私から微笑みが消えることはなかった。
 彼が歩みをとめた。立ち止まると、彼はさながら空中に立ち上がった黒い影だ。
 私も足を止め、ぐるりと一度家中を見渡してから、また陰影に沈む彼の顔の方へと視線を戻す。
「まだ使ってないルアーがあったのだな、実は。
 まだ読んでいない本もあった。
 いつかいつかと思っていて、とうとうこの時が来てしまった」
 私の言葉に、彼が小さくうなずいたように見えた。
 あるいは呆れて肩をすくめたのかも知れないし、ため息をついただけなのかも知れない。
 再び、彼が歩き始める。私も後を追う。
 玄関まで来たとき、私は彼に尋ねた。
「表は寒かったかね」
 彼は首を横に振り、おだやかに続けた。
「もう気にする必要はない」

 連れだって表へ出る。煌々とした月の夜だった。
 先にたって歩いていた彼が、ふと、足を止める。
 その視線の先には、なんの変哲もないような公衆電話。
「どうかしたかね」
 尋ねる私に答えることなく、彼はどこにスリットが入っているのか分からないような黒いスーツのポケットから、硬貨を一枚つかみ出した。
 私にはまるで、彼の手が宙の裂け目に消え、そこから金貨を出してきたみたいに見えた。
 彼は手にした硬貨を、私の方へ軽く放る。
「私の顧問弁護士は実に有能だがね、この状況に対して辣腕を発揮できるとは思えないのだが?」
 受け取りながらの私の言葉に、彼は静かに電話機の方へと首を動かした。
「かけるといい」
「誰にだね」
「誰にでも。いつの、どこにいる、どんな人間にも通じる」
 彼はおだやかにそう言った。
 私は手の中の金貨に目を落とす。
 子供の頃、どこかで一度くらいは目にしたことがありそうな、安っぽくて軽い、金ぴかのコイン。
 目を上げる。
「嘘はつかない」
 彼は静かに、首を横に振った。
 硬貨を握りなおし、電話機の方へときびすを返す、私。
 一つ深呼吸してから、受話器を取る。
 かすかに汗ばんだ手でコインを投入口に近づける。
 金貨はするりと電話機の中に吸い込まれ、受話器から、聞き慣れた「ツー」という音が聞こえてきた。
 私はもう一度、深く息をついた。
 指が、ゆっくりとボタンを押そうとして、止まる。
 諳んじている番号たちが、いくつも、浮かんでは消えた。
 それから私は、静かに受話器を戻した。コインは戻ってこなかった。
 電話機をそっとなでながら、黒づくめの彼の方へ顔だけ向ける。
「かけないのか」
 尋ねてくる。それまでの全ての言葉と同じような、おだやかさで。
 私はうなずいた。
「100点満点ではなかったが、90点だった。
 それで充分じゃないかね」
「…変わってるな」
 初めて、彼の声に、かすかな生彩が宿る。
 私は再びうなずくと、彼の方につま先を向け、スリーピースの襟を正した。
 そして、笑った。
「それでは、行こうか」


《了》

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