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proud of you

『撫子』

じゃあ僕は貴女の記憶を消してしまわないとけない。

その言葉に、撫子はゆっくりと頷いた。

『撫子』

撫子は少し微笑んで、口を開いた。

『有難う、桃矢・・・愛しているわ』

アイシテイル。血を吐くにも似た思いで桃矢は駆(か)け寄ってきた撫子を抱きしめた。碧(みどり)の眼を持つ男へ、その視線を上げる。

『幸せに』

抱きしめていた、彼より頭一つ分低い撫子の瞼(まぶた)をそっと閉ざす。

『撫子』

何処(どこ)にいても、どんな時でも。貴女が幸せであるように・・・。

桃矢の天色の眼が、深く靱い彩を帯びた。ゆっくりと撫子の顔はいつも以上にあどけなく見え、桃矢はたった一すじだけ鮮紅色の涙を零した。

「夢か・・・」

荒い息をつきながら彼は起き上がった。汗でぐっしょりのシャツが気持ち悪い。乾いた涙で引き攣(つ)れた顔をごしごし擦(こす)る。見慣れた壁の色と、無造作にピンで留(と)めてある何枚かのポストカード。全部場所は違うけど、空と海の景色。

ガチャリとドアが開いて、慣れた気配と心配そうな声。

「桃矢・・・?どうしたの・・・ねえ、大丈夫?」

「雪兎・・・」

知らず知らずのうちに涙が流れる。バサバサと髪を振って、なるたけ明るい声で彼は言った。

「悪い・・・また、撫子の夢、見てた」

雪兎の瞳に切なそうな光が浮かぶのを見て、慌(あわ)てて付け加える。

「ほらっ!またそんな顔してんじゃねーよ。俺はもう大丈夫なんだか・・・」

不意に目の前一杯に広がった白と金。それが雪兎の着ているトレーナーと彼の髪の色だという事に気付くのに少し時間が掛かった。

「止めろよな・・・どうせ抱かれるんなら女の腕の方がいいんだけど」

野郎の、しかも鍛えまくった軍人の腕なんかじゃムードの『む』の字もあったものじゃない。

憮然とする桃矢に負けない位ムッとした声が返事をする。

「いい加減にしないと殴るよ・・・。だーれーが好き好んで胸を貸さなきゃならないの・・・」

この件だけだ、と雪兎は言った。撫子さんの件だけ、この胸を貸す。それまでキリキリと張り詰めていた糸が切れるのが分かる。糸は、涙腺(るいせん)の糸。顔をぐしゃぐしゃにして泣き崩れる桃矢の背中を雪兎はあやすように抱き締めた。

「・・・・・・夢」

桃矢は泣きすぎてズキズキと痛む頭を一振りして起き上がった。知らず知らずのうちに自嘲(じちょう)めいた微笑が口元に浮かぶ。ザラリと振りかかる長い黒髪を煩(わずら)わしげにかきあげる。馬鹿な夢を見た。夢の中で夢を見るなんて。・・・―二つとも今では取り返しのつかないものなのに・・・―。五年前、自分はあの腕を捨てて此処へ来たのに――――・・・・・・。もう一度強く頭を振ると、乱れた髪を直して立ち上がる。

シンガポール、チャイナタウンの一画――――大通りからは少し引っ込んでいるが、MRTの駅からはそう遠くない――――に立つ木之本煎餅(せんべい)店の主人、というのが今の彼の姿だった。

<4に続く>

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