薬師の事情

私と妻の住む街は、郊外にある穏やかな街でした。まさか、あんな動乱が街を襲うだなんて、誰も想像していなかったでしょう。上に立つ人たちの都合でもたらされたそれは、政変だったり、政争だったり、内乱だったりしましたが、街で暮らす人々にとっては、迷惑なこと以外の何者でもありませんでした。
たくさんの家が壊れ、たくさんの犠牲がでました。私と妻も、小さな薬屋を家ごと失いましたが、二人とも無事でしたから幸運だったのでしょう。街の治安は悪化していきました。政府から派遣された鎮圧部隊は、無力だったのです。余力のある人々は、街を出て行きました。残されたのは、行き場のない弱く貧しいものたちと、動乱で流れてきたものたちだけになりました。私と妻も、街に残りました。薬師として、何かできることがあるはずだと思ったのです。


私と妻が暮らす1DKの古いアパートの隣の部屋には、若い娘さんと妹さんが暮らしていました。とても気持ちのよい娘さんの名前は、パステル。彼女は両親を動乱の最中に失ったんだそうです。弁護士だった父親は、相応の財産を残してくれたそうですが、動乱の嵐は、彼女から何もかも奪い去ってしまいました。それでも、パステルは自分を特別に不幸だとは思っていませんでした。両親を失った子供は珍しくなかったし、彼女が一番大切なものは、ちゃんと彼女のもとに残されていたのです。
夜遅く、仕事からパステルが帰ってくると、可愛い声が聞こえてきました。
「ぱーるぅ、おかえりなんだおう!」
「ただいま!ルーミィ!」
場末の食堂で、皿洗いやウェイトレスをして一日中働いて疲れた身体で帰っても、可愛い声が迎えてくれたなら、平気!と、パステルは教えてくれました。
彼女に残された、たった一人の家族。小さな妹のルーミィは、両親が残してくれた最大の宝物だと、彼女は言いました。
「いい子にしてた?今日はね、リタからパウンドケーキを分けてもらったんだよ!」
「ルーミィ、おなか、ぺっこぺこだおう!」
ちょっと食いしんぼうなルーミィは、私や妻にもなついてくれました。小さな部屋で身体を寄せ合い、その日暮らしの貧しい生活でも、二人が笑顔を忘れることはありませんでした。
他人からどんな風に見えてもパステルとルーミィは、確かに幸せだったんです。
ルーミィが病に倒れるまでは。


「ルーミィが風邪をひいたみたいで…その、安くて効きのいいお薬を、教えて貰いたいんだけど…」
青い顔をしてすまなさそうに、パステルは私たちの部屋をたずねてきました。小さな子供は、季節の変わり目には体調を崩すものです。私は、自分が役に立てると思ってパステルの部屋を訪ねました。
ルーミィは頬を赤くして、ベッドで寝ていました。
発熱して、苦しそうです。風邪だろうと思いつつ、私はルーミィを診察しました。そして、汗をかいた首筋に恐ろしいものを見つけてしまったのです。
「こ、これは…!た、た、た、大変ですよ、パステル!」
「え…?!」
驚くパステルに、私は、あわあわと慌てる自分を抑えながら、必死で説明しました。
ルーミィは風邪ではないこと。ヨウグッサンという毒蛾のりん粉を、何処かで吸い込んでしまったこと。それを吸い込んだ抵抗力の弱い子供や老人は、発熱し、徐々に体力を消耗し、最終的には死に至るということ。
「そんな、どうして…?!本当に風邪じゃないの?風邪だって、言ってよ…!」
「…残念ですが、ルーミィの首筋に証拠があるんです…」
私は、それを示しました。細い首すじに淡く浮かんでいる蝶の形をした痣。これが黒くなってしまうと、ルーミィの命も終わってしまうのです。説明したとき、パステルは泣き崩れました。私も、叫びたかった。世の中の不条理が、憤ろしかった。でも、私は薬師でした。そして薬師として、希望をパステルに教える義務があると思ったのです。たとえそれが、はかないものだったしても。
「特効薬は、あるんですよ…」
私は低い声で、呟いてました。パステルが一瞬、喜ぶ顔は見たくありませんでした。
なぜなら、その特効薬は。
大きな病院になら常備してあるもので、手に入れるものが難しいというわけではありません。でも、私たち…そしてパステルには、手に入れることが難しいものだったのです。


―――特効薬は、とても高価なものでした。