もう君だけを離したりはしない

大樹は、湖の岸辺にあった。枝を風にたなびかせる、優雅な姿だった。
「あれからパステルは現れてないって、エンニオが言ってた」
大樹を見上げながら、セスは言った。セスの後ろには、クレイとトラップがいた。彼らは何もいわず、ただセスと同じように大樹を見上げていた。
残りのメンバーは、援護のために遥か後方にいる。
パステルが目覚めれば、全てが始まるのだ。
滞っていた時は、流れ始めるだろう。
セスは大樹の幹に掌をおいた。そして祈るように、額を押し当てた。梢が風にゆられて、さやさやと音をたてる。風が何かを囁くように。その囁きの中に、セスはパステルを探し――見つけた。
「…パステル!」
名前を叫んだと同時に、大樹の幹の内側に姿が浮かぶ。それは決して触れることのできない幻だった。
――わたしを…呼ばないで…
「嫌だ!パステル!」
――呼ばないで…目が覚めてしまう…
セスの背の向こう側に、金茶色の髪が揺れていた。かぼそく聴こえる声は、懐かしくも切ない。トラップは久しぶりに自分を抑える努力をした。そうしなければ、セスを突き飛ばしてしまいそうだった。ふと、隣にいるクレイの腕が見えた。その手は固くシドの剣の柄を握り締めていた。指がくい込むほど握り締める必要は、ないはずなのに。
視線に気づいたのか、クレイの視線もトラップを射る。互いの執着に、笑うしかない。自分たちは、こんなにも過去に囚われている。それはパステルのせいではなく、自ら囚われることを望んだためだった。離れてゆく手を、再びつかむことを選んだのだ。
クレイとトラップの思惑を他所に、セスはただパステルを見つめていた。
「君を、迎えに来た」
――セス…
優しい瞳をした若者を、泣きそうな目をしてパステルは見つめていた。大樹の幹という壁がなければ、二人は抱き合っているかのような近さだった。
「パステル…俺は、君の望みを知ってる。知ってて…迎えに来たんだ」
晴れやかな笑顔で、セスは告げた。腕を伸ばして、そっとパステルの手をつかむ。そこには、実体があった。そのまま抱き寄せようとしたとき、目を見開いてパステルは叫んでいた。
――だめ…っ!もう、とめられない…ごめんなさい…っ……
悲鳴と共に、地面から湧き上がった竜巻が大樹を飲み込む。パステルの姿も消えうせていた。竜巻は大樹を蝕み、へし折り、粉砕していく。大樹の残骸の全てを吸い込んだ竜巻はうねり、のたうち、咆哮した。
竜が目覚めたのだ。
「でやがった」
トラップが呟き、クレイと共に素早く散開する。わずかに遅れて、セスも続いた。


天に駆け上がった竜は、巨体をうねらせながら浮いていた。翼はなくても飛べるということは、風の魔法を帯びているのかもしれない。下から眺める蛇体は、恐ろしく巨大に見えた。セスが息をのみ、我知らず震えていると、呑気な会話が聞こえてくる。
「改めてみると、すごいな」
「確かに。洒落にならん」
クレイは、シドの剣を抜いていた。それは細身のロングソードで、簡素で実用的な拵えは伝説の剣に見えない。トラップは、クロスボウを構えている。巻き上げ式のクロスボウは、凶悪なほどの威力があった。
ビン、という音ともに矢が放たれる。貫ぬかれた部位ごと吹き飛ばすため残虐すぎると、戦争での使用が禁じられたという逸話をもつ矢は、竜の鱗を貫いていた。突然もたらされた痛みに、竜は地上を睥睨する。そして、蟻のような敵を見つけた。
「来る…!」
クレイの声が咆哮にさえぎられる。舞い降りてきた竜が、地面をえぐった。身体をうねらせて、あたりをなぎ払う。三人は、直撃をかわすのに精一杯だった。
低位置に滞空していた竜の胴体に、どん、という衝撃が走る。投石器で飛ばされた岩がめり込んでいた。衝撃で岩は砕け散るが、第二、第三の岩が竜を狙っていた。殴られる衝撃に、竜は怒り狂う。その余波は、当然、地上にも及んだ。
「援護はありがたいが、怖いもんだ」
トラップのぼやきも、もっともかも知れない。瓦礫は雨あられのごとく降り注いでくる。その全ては、ルーミィが御椀状に張り巡らせた魔法防除に弾かれていたが、無ければ石飛礫に骨を砕かれていたに違いない。軽口の合間にも、トラップは矢をつがえている。巻き上げ式のため、連射は難しいが狙いは正確だった。
「もう少し、降りてくれるといいんだが…」
クレイの言葉に、セスが頷いたとき。岩ではないものが、竜の胴体を襲った。鈍い肉をつらぬく独特の音が響いた。竜の横腹に、巨大な槍が突き立っていた。
激痛に竜はのたうち、地上から離れようとする。だが、叶わなかった。槍には、頑丈な鎖が付随していた。その鎖はピンと張られ、竜を地上に繋ぎとめている。竜は抗い、鎖を引きちぎろうとしたが、反対に鎖に引きずられた。
思わず振り向いたセスは見た。巨大化したシロが鎖の端をくわえ、後ろ足をふんばり、前足で鎖を引いていた。ダメージの大きかった竜が力負けする。地響きを立てて、竜は墜落した。
「今だ!」
飛び出したクレイに、セスも続いた。喉元を狙うクレイから注意をそらすために、竜の鼻先に躍り出た。思ったとおり竜はセスを狙い、巨大な牙をむき出し襲ってくる。だが喉はさらさない。鎌首をもたげられると、距離がありすぎて剣は届かないのだ。
トラップがわき腹に矢を打ち込むと、竜は振り向き応じようとする。その間に、セスとクレイは反対のわき腹を切りつける。それぞれの剣は深い傷を竜に負わせ、血は川のように流れていたが、喉元には近づけない。
ひゅん、という音と共に、トラップの手から魔法のようにフックつきロープが放たれる。それが竜の鬣にからまると、クロスボウを捨てた身軽な盗賊は竜の背中によじ登っていた。
「トラップ?!」
「あぶないっ!」
戦士たちの叫びをよそに、トラップは竜の背中を走った。気づいた竜が振り落とそうとしても、バランスは崩れない。首の付け根の部分にたどり着くと、腰の後ろから銃を取り出していた。
銃は、兵器には向いてないとされる。一発打つたびに掃除をして弾をこめて…などとしている間に、弓を使うほうが効率的だからだ。結局、銃は嗜好品、あるいは玩具としてしか流通しなかったが、マジックアイテムの装置としては重宝された。有名なものはファイヤーガンやウォーターガンだが、トラップの銃はそれらとは異なる。高密度に圧縮された風の魔法を封じ込めたカートリッジが内蔵された銃は、高速で鉛弾を打ち出し、なおかつ連射が可能だった。
今回、トラップは通常の鉛弾ではなく、炸裂弾を装填していた。至近距離では人間の頭部を吹き飛ばす威力がある。その弾を装填した銃を、トラップは両手で構えた。反動を抑えるため両腕と両足に力をこめて、引き金を引いた。何度も何度も、繰り返し。
首の付け根をえぐられた竜は、絶叫する。
喉元が顕わになり、一枚だけ逆さに生えた鱗が見えた。
セスがそれを認めた次の瞬間、シドの剣が逆鱗を貫いていた。