東から来た男

「踏斉兄上が…生きておられると?」
自分が口にした言葉を、劉輝は信じられなかった。だが同じ部屋にいる霄太師も宋太傳も、劉輝の言葉を否定しなかった。戸惑うような視線をむけられた静蘭は、わずかに目をふせることで劉輝の言葉を肯定した。呆然とする彼の周囲では宰相である悠舜が複雑な表情を浮かべ、側近である絳攸と楸瑛が主と似た反応をしていた。


踏斉(トウセイ)。
それは熾烈な王位争いよりも先に死んだ、第一公子の名前だった。
劉輝は踏斉を、ほとんど覚えていない。病身だったという彼は外出を好まず、兄弟と会うことも稀だった。彼に苛められた記憶も、助けられた記憶もない。長兄は末弟にとって、遠い存在だったのだ。だが、と劉輝は改めて静蘭を見つめる。第二公子と、第一公子は関係が深かったはずだ。一つしか違わない年齢もあって、二人は常に比べられていた。病弱で凡庸とされた兄と、健康で誰よりも優秀とされた弟。愚かな親族が野望をもつ要因が、そこにあった。
第二公子清苑が流罪とされた直接の原因は、親族が第一公子踏斉を毒殺しようと計画したためだとされる。それは未然に防がれたが清苑が流罪にされた後、踏斉は病状が悪化して死んだ。6人いた公子のうち、ただ一人、先王が正式な葬儀を行った公子だった。
その第一公子踏斉が、どうして生きているのだろう?
記憶の糸をたぐっていた劉輝は、ある情景を思い出す。
庭の片隅でいつものように泣いていたとき。ふと地面を横切った影に、上を見上げた。それは白い鳩の影だった。鳩は羽ばたきながら、高い位置にある露台へと舞い降りる。そこには人影があった。鳩を腕にのせたまま、彼は空を見上げていた。射抜こうとするかのように、ただ空を見ていた。
彼が長兄である踏斉だったと、後になって知ったのだ。


「……根拠を、お教え願えますか?」
いまだ言葉を捜し続ける劉輝にかわり、悠舜が問いかける。かつては自分も宰相位にあった霄太師は、面白くなさそうに口を開いていた。
「証拠も何も。本人が、今、王宮に来ておる」
意外すぎる言葉に、悠舜は眉をひそめ、劉輝はさらに驚愕する。何かに思い当たったのか、絳攸が発言を求めた。
「それは――東からの客人のことですか?」
現在、王宮には久方ぶりに隣国――といっても地理的に山脈に阻まれているのだが――からの使節団が滞在していた。表向きの理由は、即位した劉輝への祝賀。だいぶ時期はずれにも思えるが、劉輝が即位したとき、東の国は内乱状態だったと聞く。向こうとしては、使節団が送れるほど国力が回復したのだと伝えたいのだろう…というのが、官吏たちの見解だった。
絳攸の問いに、霄太師は答えなかった。宋太傳も静蘭も沈黙したままだった。否定しなかったということが、答えだった。
再度、悠舜が問いかける。
「踏斉公子の葬儀は、正式なものだったと聞きますが」
「棺は軽かったがな」
ぼそりと、宋太傳が呟く。さらに霄太師が続けた。
「先王は気になさらなかった。つまりは、そういうことじゃ」
我が子を手にかけることも厭わなかった苛烈な先王が、死体のない公子の葬儀を出す。それは、何のためだったのだろう。誘拐にしろ逃亡にしろ、あの先王が禍根を残す不手際をするとは思えない。
王位争いで担ぎ出された第三、第四、第五公子は、直接的、あるいは間接的に全員、処断された。王位を継ぐ第六公子のために。
楸瑛が珍しく引きつった表情でもって、おそるおそる言葉をつづった。
「まさかとは思いますが…踏斉公子は、自ら出奔されたとか…」
「絶好の機会だと、抜かしおった」
苦虫を噛み潰したような霄太師の声に、悠舜をふくめた若い世代は絶句した。



※妄想なんです。清苑が流罪になった原因とか、捏造です。何回読んでもよくわからない…妾妃たちの策略って何なんだろう…。彩雲国の周辺にも国があるというのも捏造です。