前兆

目の前を異母弟が歩いていく。地下迷宮は、相変わらず薄暗い。番人は、もうでる気配はない。ふらふらと歩く後を追いかけていくが、自分もまたふらふらだった。理由は、瀕死の重傷だった傷を、さらに殴られる…というトドメの一撃のせいかもしれない。認めたくはなかったが。
じっとりと汗ばむ身体を押さえ、息が切れるのをこらえながら、平然を装って歩き続ける。さすがに自己管理で手一杯だった。それを狙ったかのように、目の前の姿が消えた。わずかに驚き、周囲を探ろうとすると。
「………いたい」
どこか、ぼーっとした声があがる。
異母弟は、何もない床の上にすっころんでいた。
「どうしてこんな場所で転倒するんだ」
「…どうしてかな?」
転んだ当人も首をかしげる。怒りのゲージが上がらないように深呼吸をして、地面に座り込んだ姿を観察した。
「鼻緒が切れてるぞ」
指摘すれば、異母弟は驚いた顔をして高下駄を拾い上げていた。
「──この前、直してもらったのに」
「この前とは、いつのことだ」
ぼーっとした異母弟の感覚は、常人と異なる。この前といっても、案外、ものすごく前かもしれないのだ。念のために問いかければ、案の定、異母弟は首をひねっていた。
「えっーっと……んと……」
「…………」
そんなに悩むほど前かっ!と突っ込みたいのをぐっとこらえて、答えを待つ。自分の身体は、限界に近い。興奮状態は避けるべきだと思う。
「ああ。辰伶が吹雪のトコにやられに行った後」
「余計な世話だっ!」
しれっと告げられた言葉に、反射的に血圧が上がるが…傷の痛みで、我にかえっていた。
「す、すげ替えたばかりだな…」
「鼻緒が切れるのは、良くないんだっけ」
「迷信だ」
じーっと高下駄をみつめる姿に言うが、なんだか元気のない姿だった。
「辰伶がいなくなった後、鼻緒が切れたとき…梵や灯ちゃん、みんなして辰伶に悪いことが起きたんだって言ったっけ」
「…………」
実際、良い目にはあっていないので、何ともいえず言葉につまる。だが異母弟は返事を期待してないようだった。
「でも、ゆやが。気にしちゃダメって言ったから、気にしなかった」
「──椎名ゆやか?」
名前を平然と呼び捨てている異母弟に、何故だかムカムカするものを感じてしまう。自分は、フルネームでしか呼べないというのに。
「この鼻緒も、ゆやがすげ替えてくれたのに…」
それでも、何処かしょんぼりと肩を落とす姿が放っておけない。
「…辰伶みたく、ゆやに悪いことがあったらどうしよう…」
「他の連中と一緒なら、安全だろう」
引き合いに出されて、若干青筋をたてるが、自分の考えをそのまま口にだす。筋肉ダルマや鬼目の狂、忍や心眼使いと同行しているならば、異母弟と一緒にいるよりも安全に決まっている。
だが。
「……みんな、ばらばらに落ちちゃったから……ゆや、一人かも」
ぼそぼそと呟かれた言葉に、ただでさえ低い血圧がさらに下がってしまう錯覚に陥った。それは次の瞬間、猛烈な勢いで上がってしまう。
「この地下迷宮を、女一人でどうこうできるかっ!ケイコクっ!さっさと椎名ゆやを探すぞ!」
「そだね。でも……」
「何だ!」
異議があるのかと思い、ぐるんと振り返れば。異母弟は困った顔をしていた。
「これじゃ、歩けない…」
真剣な表情で、高下駄をぶらぶらさせている。
辰伶は切れそうになる血管を、何とか押さえていた。
「直せないなら、さっさとよこせ!」
いらいらとしながらも、ひったくった高下駄の鼻緒をすげ替えてやる辰伶だった。

鼻緒が切れるのは、良くない前兆。
そんな迷信は信じない。
決して、信じたくなかった。