安神

段差があるのに、気づかなかった。よそ見をしてた訳じゃない。段差は、巧妙に隠れていたのだと思う。
がくんとなり、しまったと思った時には遅かった。
「きゃあっ…!」
視界が回転するのと同時に、悲鳴をあげていた。
「いったぁ…」
ものの見事に転んだあと、忌々しい段差を見つめても手遅れだった。膝と掌には軽い擦り傷。気にするほどのものでもない。問題なのは。
「…ひねっちゃったかしら」
右足首をさすりながら思う。今のところ感覚がないが、何だか嫌な予感がした。予感は大当たりだった。あれよあれよという間に足首は腫れ上がり、ゆやは転んだ場所から動けなくなっていた。
道ばたにしゃがみこんで、ため息をつく。日用品の買い物に行こうと思ったのに、結局、町にたどりつけず、かといって家に帰ることも出来ない。せめて誰かが通りかかってくれれば、伝言を言付けることもできるのだけれど、あいにく誰も通らない。
日はすでに傾きはじめ、ゆやは痛む足をさすりながら考えていた。片足で、どこまで帰れるだろうか?日がある内に、いける処まで行く方が賢明かもしれない。足首は悪化するだろうが…夜中の一人歩きを思えば、我慢するしかないだろう。
「…よし。がんばろっと!」
心を決めて、立ち上がろうとしたとき。目の前に、人影が立っていた。何の気配もなかったが、それも当然といえば当然だろう。目の前の漢は、最上級の戦士なのだから。銀の髪と青い服の漢は、真面目な顔でゆやを見下ろしていた。
「……遅いから、迎えにきたんだが……何をしているんだ?」
真剣に問われて、ゆやは苦笑するしかない。腫れ上がった足首を押さえて、物思いにふける女はそうはいないだろうに。
困ったような表情に、ようやく漢はゆやの足首に気がついたようだった。足下にしゃがむと、遠慮もなく足首をつかむ。その時の衝撃は、声にならない。ゆやは、うっすらと涙を浮かべながら、歯を食いしばっていた。漢に悪気は、まったくないのだ。
しかし、やはり痛いものは、痛い。浮かんだ涙の量が増えて、頬をつたった頃。ようやく漢──辰伶は、ゆやの現状に気づいたらしかった。
「あ、す、すまんっ!痛かったか?」
「うん…」
ゆやが恨めしげな目でみつめると、辰伶はがっくりと肩を落とした。
「本当に、すまん。どうも俺は…その、力の加減がわからなくて…」
あたふたと謝罪する姿は、憎めなくて。ゆやは、許すような笑みを浮かべるしかなかった。
「これから、気をつけてくれればいいから。それより足首、大丈夫かな?」
ゆやの言葉に気をとりなおした辰伶は、困った表情を浮かべて首をふった。
「大丈夫じゃない。かなりひねっているな…しばらく、歩くのは無理だろう」
想像していた通りの言葉に、今度はゆやががっくりと肩を落としていた。
その姿をどう思ったのか。次の瞬間、ゆやの身体は宙に浮いていた。
「きゃ…!」
短い悲鳴をあげると、思わず辰伶にすがりつく。ゆやは、辰伶に抱き上げられていた。いきなり高くなった視点は、やはりちょっとだけ怖いものだ。
「安心しろ。落としたりはしないから」
「で、でも、家までは割と距離があるし……その、重いでしょう?」
最期の言葉を口にするのは、抵抗があったが。やっぱり言わずにはいられなかった。
だが、辰伶は不思議そうな顔をするだけだった。
「お前は、重くないぞ?むしろ軽すぎた。ちゃんと食事はしてるのか?もっと、太ったほうが…」
「……女の子に向かって太れだなんて言わないで、辰伶」
じとっとした眼差しで見上げれば、辰伶は慌てて口をつぐむ。触らぬ神に祟りなし…と思ったのかもしれない。
「と、とにかく、お前は軽いから。安心しろ」
そう言うと、辰伶はすたすたと歩き出していた。発した言葉通り、ゆやを抱き上げた腕は微動だにしない。改めて抱えなおすこともなく、しっかりと支えている。
自分を抱き上げる漢の肩に頬をよせながら、ゆやはぼんやりと過去を思い出していた。あまり自慢できることではないが、自分を抱き上げた漢たちの腕を。
一番安心できたのは梵天丸だった。あの体格と太い腕は、心地よいほど安定していた。
ちょっと不安だったのは、狂。京四郎も、怖かった気がする。腕力的には申し分なかったと思うのだが……人格が不安だったのかもしれない(案の定、セクハラされたし)。一番怖かったのは、アキラだった。あの状況では仕方ないといえば、そうなのだが。ほたるに抱き上げられた経験はないが、体格的にアキラと同じだからやっぱり怖いかもしれない。灯は、あの素晴らしい腕力なら、きっと大丈夫なのだと思うけれど…何だかこっちが遠慮してしまいそうな気がして、あまりそういう事態に陥りたくはないなぁ、と思った。
知らず知らず、ゆやは微笑んでいた。小さく笑ったゆやに、抱き上げている辰伶は首をかしげた。
「…どうかしたのか?」
「ううん、何でもないの」
そう答えると、辰伶は首をかしげながらも追求はしない。軽々と自分を抱き上げて平気な顔をしている漢を、ゆやはそっと見上げた。自分を支えてくれる腕に、不安は感じない。やっぱり梵天丸が一番だけれど、この確かさは二番目で間違いないだろう。
自分が、こんなにも弱い人間だとは知らなかった。抱き上げてくれる腕だけで、幸せを感じることができるだなんて。それでも、頼ることのできる人がいることに、無上の喜びをおぼえる。たぶん人は、些細なことで幸せになれるのだと、思う。
辰伶と共に家路をたどりながら、ゆやは願った。できれば傍らの漢も、自分といて幸せであって欲しいと。
それは願うまでもないことで、辰伶も同じようなことを考えているということを、まだゆやは知らなかった。