暖鳥

ゆやは途方にくれていた。
「…こ、ここは何処かしら……?」
辺りは深い霧に閉ざされて、足下もおぼつかない。人の気配も動物の気配もなく、ただ荒涼とした岩と寂しげな低木が細々とみえている。道のような、そうでないような場所に、ゆやは一人でたちつくしていた。
「私ってバカ…」
がっくりと肩を落としても、もはやどうしようもない。一行から自分がはぐれてしまったのは間違いなかった。
ハズレの道を引き返していたはずなのだ。アタリの道にいる狂と梵天丸の元にむかって。灯やアキラ、サスケ、ほたる、紅虎と一緒に歩いていたはずなのに。自分の注意力が散漫になっていたことは否めない。…どうしても考えてしまう事があったから。心がそちらを向いていた。ここは敵地で、油断ができない場所だと解っていたはずなのに。
気がつけば、歩いていた回廊は何処にもなく。いつのまにか霧の荒野に、一人で立ちつくしていた。
回廊にあった何かしらの罠に、自分が嵌ってしまったと考えるのが妥当だろう。一刻も早く狂たちに合流したかったのに、足手まといになってしまった。それを思うと、ため息がでる。誰か、迎えに来てくれるだろうか?そう思ったけれど、諦めて首をふった。おそらく灯、ほたる、アキラは、狂の元にいくために寄り道はしないだろう。彼らは、狂が全てに優先しているようなので。紅虎やサスケは、自分を探してくれるかもしれない。でも…いつもいつも、彼らには迷惑をかけている。今回ぐらいは、何とか自力で合流したかった。
ゆやは顔をあげて、霧の中に足を踏み出した。今度は油断なく、辺りをうかがいながら。しかし、行けども行けども霧は晴れることなく、生き物の気配もなかった。霧もどんどんと深くなり、今は足下さえおぼつかない。
「…じっとしてた方が、よかったかなぁ」
立ち止まって、はぁ、とため息と一緒に呟いたとき。
「なんだ、迷子か」
耳元で、低い声がした。
「きゃっ……!」
何の気配もなかった背後からの声に、ゆやは驚いていた。振り向こうと足の位置を変えようとしたが、そこに地面はなかった。足は空を踏み、安定を崩したゆやは、そのまま下に落下する。声もなく滑り落ちたゆやを待っていたのは、冷たい水だった。
知らぬ間に、池のほとりに立っていたらしい。比較的浅い池だったのは幸いだった。立ち上がってみれば、膝上ほどの水かさだったが…転がり落ちたゆやは、頭の先からずぶぬれになっていた。
「迷子から、濡れ鼠に変身だな」
頭上から、楽しそうな声が降ってくる。きっ、と振り仰げば、ゆやをおどかした漢が立っていた。片手に、ゆやの荷物を持っている。落ちるときに、とっさに手放していたのだろう。荷物が濡れなくて、幸いといえば幸いだが…自分をにやにやと笑いながら見下ろしてくる漢を、ゆやは顔をしかめながら見上げた。奇妙な漢だった。袖無しの着物の色は、派手な赤。何より目をひくのは、ひらひらとなびく赤い目隠しの布。
「大丈夫か?手を貸してやろーか」
本気か嘘かわからない、軽い声音だった。敵意も害意も感じないが、ゆやは唇を噛みしめる。ここは壬生の地で、自分は侵入者。味方は、共にきた彼ら以外、何処にいないのだから。
「結構です」
それでもかけられた声を無視できず、短く返事を返すと苦労して池から登った。案の定、漢は見ているだけで何もしない。…目隠しをしているはずなのに、視線を感じるというのもおかしな話だが。
乾いた地面に到着すると、我慢できなかったくしゃみがでてくる。濡れた着物が素肌の熱を奪っているのだ。早急になんとかしないと、間違いなく風邪をひくだろう。
ゆやは、あらためて自分を見物している漢に向き合った。
「荷物を、返してもらえますか?」
「いいぜ。ここまで取りに来な」
漢は口元を歪めて笑っている。素手だが、壬生一族なのは間違いないだろう。自分から近づくのは、自殺行為だった。逃げるなら、適度な距離がある今しかあるまい。背中をむけて一目散に駆け出せば、逃げ切れるかもしれない。それは魅力的な考えだったが、ゆやの心の奥で警鐘がなる。この漢に背中をむけてはいけないと。
猛獣に、背中を見せてはいけない。熊も虎も、背中を見せれば間違いなく襲いかかってくるのだ。ゆやは、奥歯を噛みしめて足を踏み出していた。
漢の布に閉ざされた奥の目を睨み付けるように見つめながら、怯えをねじ伏せて距離を詰めていく。手を伸ばせば届くほどの距離で、ようやくゆやは足を止めた。
「荷物を返して下さい」
視線をそらすことなく、挑戦的ともとれる口調で言い放つ。
漢はまじまじとゆやを見ているような素振りだった。しばらくの沈黙の後。
「結構、根性あるじゃねーかっ!」
ゆやの肩をばんばんと叩きながら、楽しそうに笑いはじめる。よくできました、と言わんばかりの雰囲気を湛えながら。
叩かれた肩に少々の痛みを覚えながら、ゆやは目前の漢を改めてみていた。
何を考えているのか、さっぱりわからない。敵なのは…間違いないと思う。頭一つ分、自分より背が高く、がっちりとした腕は綺麗な筋肉が波打っていた。
「ま、これはご褒美だな。ちゃっちゃと着替えたほうがいいぜ?あっちで火を熾しといてやるから、着替えたら来な。少し、暖まったほうがいい」
ゆやに荷物を渡すと、笑いながら漢は霧に姿を消す。しばらくすると、離れた箇所に明かりが点るのが見えた。漢が焚き火を熾したのだろう。
荷物を抱えて、ゆやはその場に座り込んでいた。こらえていた息を、はぁ、と吐き出す。とりあえず一つの山場を乗り越えたという感触があった。危機的状況は、まだ続いているのだけれども。どくどくと波打つ心臓を押さえながらも、ゆやは手早く濡れた着物を着替える。乾いた着物に袖を通すと、ほっと人心地がつける。それから思っていたよりも冷え切っていた身体を感じた。
ぶるりと身をふるわせながら、ゆやは立ち上がる。逃げようとは、思わなかった。…逃げても無駄だと思った。殺気も、邪気も、あの漢は発さなかった。それでも、数々の死合を見てきた経験が、ゆやに教える。あの漢の危険度は、最上級だと。
「やっぱり、逃げなかったな」
焚き火の側に、漢は座っていた。現れたゆやを見ると、満足そうに頷いている。それからくいくい、と手招きをする。隣に座れ、と示していた。
ゆやは覚悟を決めていた。どうせ、何処にいても危険なのは同じなのだから。
荷物を抱えて、迷うことなく漢の隣にすわった。焚き火の火が、暖かだった。ぱちん、と木が爆ぜる音が響く。ゆやは何も言わず、漢も何も言わなかった。何か聞かれるのかと気をはっていたが、ゆらゆらと揺れる炎を見つめていると、眠気が襲ってくる。身体が温まってきたせいだろう。
敵の側で眠ってはいけない、そう思うのだが今までの疲労が一気に襲いかかってきたらしく、どんなに耐えてみてもまぶたが落ちてくる。膝をかかえながらも、ゆやの意識はすうっと、眠りの淵に落ち込んでいった。駄目だと思いつつ、包まれるような暖かさを覚えると、もはや抵抗はできなかった。

必死で眠気をこらえる少女を、遊庵は感じていた。傍らの少女は、自分を敵だと認識しているにもかかわらず眠ろうとしている。剛胆なのか、鈍感なのか。それとも疲労が激しいのか。おそらく全てが当てはまるのだろう。
背中を見せれば、嬲り殺してしまおうと思っていたのに。少女は踏みとどまり、自分を睨み付けながら近づいて来た。破れかぶれになったわけではなく、ただ一瞬の勝機をつかむために。
濡れ鼠で貧相な外見の少女だったが、内に秘めた魂は見事だった。再会した弟子の炎も悪くはなかったが…。
「久しぶりに、いいモンを見せて貰ったぜ」
呟くが、少女は反応しない。睡魔との戦いで、それどころではないのだろう。小さく遊庵は笑った。皮肉な笑みではなく、静かな笑みだった。壊れ物をさわるように、そっと少女の身体を引き寄せる。くったりとした身体は、何の抵抗もなく遊庵の懐におさまった。
「ま、こーゆーのもいいだろ」
何の力も持たない、人間の小娘。見逃したところで、いつでも殺せるのには変わりない。時人や吹雪も、文句はいわないだろう…言われるかもしれないが、バレなければ問題ない。
遊庵に抱きしめられた少女は、ぐっすりと寝入っていた。人肌の温もりを感じて、安心したのかもしれない。寝顔には、まだ幼さが残っている。それを見つめて、名前を聞けばよかったと、今更ながらに遊庵は後悔していた。そして、自分の名を名乗るべきだったと。
「こいつに呼ばれたら…ゾクゾクするかもな」
腕の中で眠る少女。指先が唇に触れても、起きる気配はない。生乾きの髪を弄りながら、呟いていた。
「…次回のお楽しみにしとくか」
少女が自分の名を知って呼ぶとき。何が起きるのか、楽しみといえば楽しみだった。近い未来を想像しながら、遊庵は懐に少女を抱いて焚き火の炎を見つめていた。

肌寒さを覚えて、ゆやは目を開けた。ぼんやりとした視界の先で、焚き火が消えてくすぶっているのがみえる。ああ、だから…と思ったとき、がばっ!と跳ね起きていた。敵地で睡眠を貪った自分の迂闊さが信じられない。慌てて辺りを見回すが、誰もいなかった。隣にいたはずの奇妙な漢の姿もない。
きょろきょろと辺りを見回せば、いつのまにか霧は晴れていた。慎重にあたりを伺いながら、荷物を抱えて立ち上がる。自分では、あの漢の気配を追えないのは解りきっていたが、それでも油断はできないのだ。
だが、眠ってしまった自分は何故か無事だった。ありえない想像を、思わずゆやは口にする。
「…見逃してもらったのかしら…」
言葉が風に流れたとき、自分に近づく気配にゆやは身構える。銃は間に合わない。瞬時に判断すると太股の小刀を抜いていた。
「ゆやねぇちゃん、俺っ!」
サスケの声に、腕が止まった。
「あ、ご、ごめん、サスケくん…!」
喉もとギリギリで小刀を止めて、あわててゆやはあやまる。サスケは、肩をすくめながら小さく笑っていた。
「無事でよかった。油断もしてないみたいだし」
「探しにきてくれたの…?」
「当たり前だろ。ねぇちゃんは、俺の仲間なんだから」
「ご、ごめんね、はぐれちゃって…」
しゅんとなるゆやに、サスケは何でもないことのように告げる。
「罠に気づかなかった、俺のせいもあるんだし。気にしなくていいよ。行こうぜ、バカトラたちがうるせーんだ」
「そうなの?」
「うん。ほら、はやく」
サスケは、ゆやの荷物をもつと手を引いて歩き始める。ゆやは困ったような、嬉しそうな笑みを見せてついていく。みんなと一緒にいけると思うと、どっと安心感が押し寄せてくるのだ。
ゆやの手を引きながら、気づいた違和感をサスケは尋ねる。
「…そういや、なんで着替えたんだ?」
「池におちちゃったの。さっきまで、霧がでてたでしょう?」
ゆやは出逢った奇妙な漢のことは、言わなかった。何故か、言わない方がいいような気がしたのだ。それでも嘘はつかない。実際にあったことを口にしていた。
「気をつけねーと。ここは何が起こるかわかんねーから」
「そうね…」
答えながら、ふとゆやは背後を振り返る。
ひらひらと舞う赤い布の端を、見たような気がした。


【暖鳥(ぬくめどり)鷹が捕らえた小鳥を一晩中抱いて、その体温で暖めること。またはその小鳥のこと。朝になったらそれを放してやり、その日は小鳥の飛び去った方向には行かないという言い伝えもある。『絶滅寸前季語辞典』より】