凍蝶

「どうしました、遊庵。御機嫌ですね」
ひしぎは回廊を鼻歌交じりで歩く同僚を、不思議そうに呼び止めた。遊庵は、立ち止まると自慢そうに答える。
「ふふん…いいモノを見つけたからな」
「いいモノ…?」
首をかしげるひしぎに、遊庵は告げる。
「おう。可愛い蝶々さ」


壬生の地が、あまり好きではなかった。時間が止まったかのようなぬるま湯な日々に、飽き飽きしていた。ゆっくりと真綿で首をしめられていくような閉塞感。そして、確実に忍び寄ってくる滅びの足音。村正が出て行ったのも、わかる気がした。ひしぎや吹雪も、理解しているだろう。ただ、受け入れることができないだけで。
比べて外の世界は面白かった。人間は、弱く愚かで興味はないが、刺激的なものを生み出している。殺し合いも、騙しあいも、春をひさぐ女にしても。見ているだけで、飽きることがない。独りで人間の世を彷徨うのが好きだった。
ふらりと立ち寄った村で、遊庵は蝶々を見出した。


「お坊様は、死んじゃうの?」
「は?」
小高い丘の上に立ったとき、背後から声をかけられて驚いた。自分が死ぬかもと心配されたことと、坊主と間違われたことが二重にショックだった。
「……あのな。何でそう思うんだ?」
遊庵に声をかけた少女は、心配そうに見上げながら答える。
「村のおばさんが噂してたの。目が見えないから、世をはかなんでるんじゃないかって。背中にお経を書いてるから、お坊様なんでしょう?」
問われても、遊庵は答えられない。目隠しをしているのは心眼があって不自由はないからだし、背中の色即是空は、ただの趣味だ。まあ人間には理解しがたいのだろう。しかし、正面きって自分に問いかける者がいるとは思わなかった。
「…どっちも違うぜ。俺は自殺なんかしねーし、坊主でもねーからな」
「え…そうなの?ご、ごめんなさい…!」
遊庵を見上げていた少女は、驚きで頬を紅く染める。10かそこらの将来が楽しみな少女だった。さらさらと流れる金の髪と、大きな常磐緑の瞳。ふと、遊庵は気まぐれに口にしてみた。
「何で俺を心配するんだ?」
「だ、だって……なんだか、寂しそうにみえたから…」
小さな声で答える、小さな少女。遊庵は、唇をゆがめる。太四老である自分が、まさか人間風情に同情される日がくるとは。怒りを覚えてもいいはずなのに、何故か怒りは覚えなかった。ただ、痛いところを突かれたような気がした。
これまでも、これからも、自分は独りで生きていくだろう。自分には向いている生き方なのだと、知っている。
寂しいなどという感情は、完全に消し去ったはずなのに。目の前の人間の少女は、どこからか感じとってしまった。
自分の未熟さを嘲笑うべきか、少女の鋭さを誉めるべきか。遊庵は、少女に手をのばしていた。くしゃり、と金の髪を撫でてみる。さらさらの髪は柔らかく、上質の絹を思わせる手触りだった。
「今は、寂しくねーよ。そういうお前は、どうなんだ?」
「兄様がいるから、寂しくないもん」
少女は、当然のように笑う。それがしゃくに障って、少し意地悪を言ってみる。
「それじゃ、兄貴がいなくなって独りになったら、どうする?」
「え…」
常磐緑の瞳を見開いて、少女は口ごもった。今まで考えたこともなかったのだろう。
「独りになんか、ならないもん!ゆやは、兄様とずっと一緒にいるんだから!」
怒ったように、少女は口にした。遊庵はムキになる少女を、面白そうにながめていた。
「…ずっと一緒にいられる人間なんて、いねーよ。人は独りで生まれて、独りで死んでいくんだ」
自分の言葉が、毒のように少女にしみこむのを感じた。それで、この少女がどうなるのか。意地の悪い考えでもって、遊庵は少女を見つめる。
常磐緑の瞳の少女は、目蓋を閉じ、しばらくしてから再び瞳を開く。それから、静かに呟いた。
「そんなのは……寂しいよ…」
「もし…お前が独りになったら、俺が拾ってやるさ」
ふと零れた言葉に、少女は驚いた顔をしたが、口にした遊庵自身も驚いていた。だが、どこかで納得もしていた。
独りでいることに不満はない。ただ、何かを手元に置きたい瞬間がある。いつか失われるのだとしても。それが、今だったのだろう。
「お前が、もちっと大きくなって、独りになったら、拾ってやるよ」
「あのね、そんな日は来ないとおもうんだけど…」
困ったように口にする少女に、背を向けた。そのまま、ふいっと姿を消す。人間でしかない少女には、かき消えたようにみえただろう。残された少女の戸惑いを想像しながら遊庵は、その村を後にしていた。


遊庵の話を聞いたひしぎは、考え深そうに言った。
「その少女が独りになる日が、必ずくるとは思えないのですが……あなたは、もう手にいれたかのように上機嫌ですね」
「あと五、六年もしたら、独りになるのさ。俺が、独りにするからな。そしたら、あの蝶々は俺のもんだ」
にやりと遊庵は、危険な笑みをみせる。ひしぎは、一瞬眉をひそめ、ため息をつく。
「…遊庵、蝶々だからといって侮ると、逃げられてしまいますよ?」
「あ?」
「蝶の中には、越冬するものも、海を渡るものもいるのですから」
ひしぎの前に立つ遊庵は、それを聞くと心から嬉しそうに笑った。
「それぐらいしぶとい方が、俺の好みだな。簡単に手にはいっちゃ、つまんねーだろ?」