明日

雨が降っていた。
無数の細かな水滴が、雲からゆっくり落ちてくる。
霧雨だった。
一行は旅籠で足止めされていた。朝から降り続く雨は、止む気配がない。季節は秋の終わり、街道は山へと続いている。無理に出立しても得るものはなく、雨が上がるまで待つことにしたのだ。
ゆやは自分のためにとった部屋で、荷物の整理をしていた。漢どもは、まとめて大部屋に放り込んである。日中から馬鹿騒ぎはゆるさない!と、きつく釘をさしたためか、今のところはおとなしくしているらしい。
でも、今晩はうるさいだろうなぁ…と簡単に予測できた。宿代に酒や肴、その他モロモロの出費を考えると、頭が痛い。ゆやの理想は清貧だったはずなのに。旅を続けると、うっかり忘れそうになる。その都度、軽くなった財布を握りしめて、誓いを新たにするのだが。
今夜の馬鹿騒ぎで、わがままは許さないんだから!と握り拳でもってゆやは誓った。文句をいいつつも、最終的には面倒見が良いために漢どもに集られやすい…という悪循環に、ゆやは気づいていない。
ゆやの部屋は、旅籠の庭に面していた。あまり手入れのされていない庭は、すでに庭というよりも雑木林といった方がよくなっている。
降り続く雨は、さぁっ…と風に似た音をたてていた。細かい水滴に光は錯乱し吸収され、辺りはぼんやりとした単色の風景と化していた。
その中に、墨絵のような人影がある。
狂だった。漢は、大振りな木の枝を見上げている。サスケでもいるのかと思ったが、そうでもないらしい。霧雨が着物をぬらすのを、気にとめるそぶりもない。
ゆやは不思議そうに首をかしげながらも、狂の側へと向かった。

「…何してるの?」
「…………」
鬼眼の漢は、ちらりとゆやを見るが、何も答えない。視線は、やっぱり木の枝に固定されていた。
「何よ、答えな…」
「うるせー。ちっと、黙ってろ」
声をはりあげようとしたが、不機嫌な声に黙ってしまう。むっとしながらも、ゆやは狂がみつめる木の枝を見上げた。何か、いるのだろうか?
霧雨が、二人を包み込んで濡らしている。寒さに、ゆやが身体を震わせたとき。
枝の上で、ごそごそと何かが動いた。なんだろう、とゆやが伸び上がるよりも速く、霧雨を切り裂いて白刃がひらめく。狂が天狼を抜いたのだ。次の瞬間、枝はすっぱりと切り落とされ落下していた。
「きゃっ!あぶないじゃないっ!」
落ちた枝をよけたゆやが文句をいうが、狂はふん、と鼻で笑う。さらに文句をいってやろうとした、ゆやの足下で、かぼそい鳴き声がした。
「え…?」
切り落とされた枝には、しがみついたまま硬直している仔猫がいたのだ。雨にぐっしょりとぬれ、哀れっぽい声で、やせっぽちの猫が鳴いている。
「大変!」
あわててゆやは仔猫を拾い上げる。それから、さらに驚いた顔で狂を見上げていた。
「…馬鹿ネコがギャーギャーうるせーから、昼寝もできやしねぇ」
漢たちの大部屋は、ここから大分離れていた。一番近くの部屋はゆやの部屋だが、ゆやに猫の鳴き声は聞こえなかった。…どうして狂は、猫の声を聞いたのだろう?不思議そうなゆやの視線を避け、そっぽを向いた漢は太刀を担いで立ち去ろうとした。とっさに、ゆやは漢の袖を握りしめる。
「…なんだ」
「風邪、ひくわよ?とりあえず、着替えなきゃ」
そのまま、漢の袖を引いて自分の部屋へと戻る。もちろん懐には、やせ猫をかかえたまま。

部屋に戻ると、荷物の中から狂の着物をとりだし押しつける。
「さっさとこっちに着替えて。濡れた方は、ちゃんとたたんでおくよーに!」
そういうと、ゆやは狂に背をむけて、やせ猫の毛皮を手ぬぐいで拭いてやる。漢の着替えを見る趣味はなかったし、手の中でぶるぶると震える仔猫が気になったのだ。
「野良…よね、あんた。木に登って降りれなくなるなんて、情けないわよ?」
哀れっぽく鳴く仔猫に、ゆやは柔らかく話しかける。仔猫は温もりを求めるように、ゆやにすり寄っていた。
「おい」
「…!」
耳元で声をかけられ、ゆやは飛び上がる。狂は気配もなく着替えていた。そのままゆやの背後から手をのばし、やせ猫をつかみあげてしまう。
「何するの!やめなさいよ!」
「お前も、さっさと着替えろ」
「え?こ、ここで?」
「他にどこで脱ぐんだ」
「そりゃ、そうだけど…だったら、出て行って!」
頬を染めて主張するゆやを、狂はおもしろがるように見ていた。
「ちんくしゃの裸なんざ、興味ねーよ。さっさと着替えろ」
頬をゆがめて言うと、ゆやに背を向けたまま座った。部屋を出て行く気はないらしい。やせ猫は、狂の手の中で大人しくしている。一瞬、もっとキツク言ってやろうかと思ったが、何だかばかばかしい気もした。ゆやは自分も狂に背をむけると、すばやく着替え始めた。
幸い単衣は濡れていなかったから、小袖だけ新しいものを羽織る。暖かい感覚に、少しほっとした。帯を締めようとしたとき、後ろに回した手を掴まれた。
誰、と問わずとも、犯人は一人しかいない。
「ちょっと、狂!何を…」
掴まれた腕を、強くひかれる。ゆやはバランスを崩して背後に倒れ込んだ。待ちかまえていた狂の腕の中へと。そのまま背後から抱きしめられる形になっていた。
「帯、結べないじゃない…」
拗ねたようにつぶやくゆやを腕の中に閉じこめた漢は、肩口でささやく。
「結ばなくていい…ほどく手間がはぶける」
「え、ま、待って、まだお昼だし…っ!」
「知ったことか」
慌ててじたばたと暴れだすが、狂の腕からは逃れられない。合わせただけの着物を片手で押さえているから、どうしても抵抗も弱くなる。観念しかけたゆやだったが。思いもよらなかった感覚に、身体を跳ねさせていた。
「きゃっ…!くすぐったいっ…」
ちょうどゆやの胸元に、あのやせ猫が這い上っていた。そして、みゃーみゃーと鳴いている。腹が減っているのかもしれないし、遊んでほしいのかもしれない。くすくすと笑いだしたゆやと、みゃーと鳴く猫を、狂は憮然とした顔でみつめた。気がそがれたのか狂はゆやを猫ごと膝の上に、横抱きに抱え直していた。
「ほっときゃよかった、馬鹿猫が…」
忌々しそうに呟く狂を見上げて、ゆやはころころと笑い続ける。片手で着物を押さえ、もう片方の手で胸の上で丸くなる猫を撫でていた。
そのまま狂の胸に顔をもたせかけて、ゆやは目をとじる。規則的な鼓動が聞こえる。かなうならば、これから先もずっと聞きたいと願う、心臓の音だった。
狂もまた、ゆやを抱きしめていた。もはや手放せない、温かな存在を。胸の上でくつろぐ猫を睨みながらも、ふと思う。
もしも、明日。自分が、何も持たないやせ猫になったとしたら。腕の中の少女は、自分に聞かせてくれるだろうか?何の見返りも必要としない……言葉を。