寒紅

アキラが中年男を助けたのは、単なるついでだった。
荷物を背負った男と一行がすれ違ったとき、偶然、男が転んだのだ。当然のように荷物は崩れ、中年男はあたふたと慌てる。だが、残念なことに中年男に同情する漢は、一行にはいなかった。狂を筆頭として梵天丸、灯、ほたるにサスケ、幸村、紅虎と、何事もなかったように歩き去っていく。ただ、最後を歩いていた一人が立ち止まり、中年男に救いの手をさしのべる。
「大丈夫ですか?」
ゆやだった。すぐ手前を歩いていたアキラは、足を止める。そんな情けない中年はほっておけばいいのに、ゆやは心配そうに中年に話しかけ、崩れた荷物を拾うのを手伝い始めていた。
狂は後方の出来事に無関心だった。梵天丸は、心配そうに振り返る。紅虎が戻ろうとしたので、アキラは動いていた。
「手伝いますよ、ゆやさん」
柔らかく言うと、ゆやが嬉しそうに笑った。中年もすいませんと頭をかく。地面に散らばった荷物を拾う背中に、紅虎の怒りの声が響くが…アキラは勝利の笑みを見せつけるのだった。
「もう、みんな白状なんだから。あ、アキラさんは別ですよ?」
ただ無邪気に笑うゆやを見ると、罪悪感を覚える。アキラが手伝ったのは、親切ではなく紅虎への嫌がらせだったから。しかし、ゆやも中年もそんなコトとは露ほども思ってなかった。
一通り荷物が集まると、中年男は頭を下げた。
「ありがとうございました。おかげさまで助かりました。これは、お嬢さんにお礼です。貰ってやって下さい」
中年男が差し出したのは、綺麗に磨かれた櫛だった。
「わぁ…いいんですか?」
「はい。私の商売物ですが、よろしければ」
「おじさん、小間物屋さんだったんだ…」
櫛をうけとり、ゆやは嬉しそうに笑った。ためつすがめつ櫛を見ている姿は、年相応で微笑ましい。
「あ、お侍さまは、こちらを」
「私にですか?」
小間物屋から何を貰っても嬉しくはないのだが。中年男がアキラに渡したのは、蛤の貝殻だった。手のひらの物を眉をしかめると、中年男は慌てて説明する。ゆやに聞こえないように、こっそりと。
「これは寒紅です。あちらのお嬢さんに、あなたからお渡ししたら喜ばれますよ?」
「………」
とっさにアキラは返事ができなかったが、受け取りを拒否することもできなかった。
中年男がアキラの想いを読み取った訳ではない。ただ、漢たちの中でアキラだけがゆやを手伝ったのをみて単純に発想しただけなのだろう。はからずしも大当たりだったが。うやむやのうちに、アキラは蛤を受け取っていた。櫛に夢中だったゆやは、アキラが蛤を受け取ったことに気づいていない。やがて身支度を調えた中年男は、何度も頭を下げながら去っていった。
後れた二人が一行に追いついたのは、泊まる旅籠を決められた後だった。
「また、こんな高いトコに泊まって!」
勝手に宿を決められたゆやは、怒っている。支払うのは彼女だから、怒りももっともだろう。今夜の宿を決めたのは幸村らしく、旅籠はそこそこ高級な──当然値段も張っている──ものだった。アキラはゆやの愚痴を聞きながらも、頭の中では別のことで一杯だった。
偶然、手に入れた寒紅。自分が持っていてもしかたないものが、いま袂に入っている。これの利用方は、一つしか思いつかない。思いつかないのだが……どうやってゆやに渡せばいいのだろう?アキラの思考は、ぐるぐると空回りするばかりだった。
大部屋では、恒例になってしまった宴会が繰り広げられている。呼ばれた数人の女たちが酌をして、華やかで色っぽい雰囲気がたちこめている。幸村も梵天丸も紅虎も、絶好調。サスケはいつの間にか姿をけしており、灯は狂のそばに女を近づけまいと気炎をあげていた。酒の苦手なアキラは、女たちの手を逃れ部屋を出ようとした。その折りに、所在なげに座っているゆやを誘ってみる。
「ゆやさん…外の空気を吸いにいきませんか?」
ゆやは顔をあげると、心配そうに笑いながら頷く。心配しているのは、財布の減り具合に違いない。そっと連れだって出ようとしたとき、アキラに断られた女の一人が揶揄するように言った。
「…紅もひかない子供のくせに、男を誘うのは一人前なのねぇ?」
小さな声だったが、ゆやの耳にはしっかりと届いていた。もちろん、他の漢たちの耳にも。
ゆやは、きっ、と女を睨み付けて、言い放った。
「紅なんてひかなくても、私は一人前です!いきましょう、アキラさん!」
そのままアキラの腕を引いて、さっさと部屋をでる。ぴしゃん、と閉めた襖の向こうからは、爆笑する幸村や梵天丸、ゆやを呼ぶ情けない紅虎の声が聞こえてきたが、ゆやはずんずんとアキラの腕をとったまま歩き続けていた。
「…ちょっとお化粧してるからって、人を半人前扱いして…!」
思わず零れた呟きからは、悔しさがにじみ出ている。アキラはゆやの怒りももっともだと思いつつ、内心、ため息をついていた。さすがに、あんなコトがあった後では、寒紅を渡すのは気が引ける。また別の機会を待つしかなさそうだった。
中庭にたどりついたとき、ゆやはようやく立ち止まった。
「…ごめんなさい、アキラさん。変なトコみせちゃって…」
しょんぼりとするゆやに、アキラは穏やかに言った。
「別に変じゃありませんでしたよ?あれで怒らないほうが変だと思います」
ゆやは、しばらく黙っていた。それから、答えを恐れるようにアキラに問いかける。
「………漢の人って、やっぱり紅をひいた女の人の方が好きなんでしょうか?」
そうっと自分をうかがうゆやは、たまらなく愛らしくて。おもわず抱きしめたくなる手を、アキラは握りしめていた。
「私は……紅は、どうでもいいと思ってます。どんなに化粧されても、私には、わかりませんからね」
おどけるように言っても、ゆやは沈んだままだった。こんなとき、どういう風に慰めればいいのかアキラには解らない。いっそ、そのままの貴女が好きです、と告げてしまいたかった。沈黙に耐えかねて、告白してゆやを抱きしめよう、と腕をあげたとき。
ことん、という音がして袂から蛤が転がり落ちていた。
やばい、と思う間もなく、ゆやが蛤を拾ってしまう。
「何か落ちました、アキラさん…?」
しまった、と狼狽して上手い言い訳さえも思いつかない。アキラが言葉に詰まっている前で、ゆやは蛤をみて沈黙する。しばらくして、おそるおそる声をだしていた。
「……これ…」
ゆやが言葉にするまえに、焦ってアキラは口を開いていた。
「寒紅なんです!」
「………」
勢いよく言われ、ゆやは驚いてアキラを見上げた。
「あの、昼間の小間物屋から貰って、それで、そのっ」
いつもの冷静沈着さは、どこへやら。慌てふためくアキラを、ゆやは見つめた。どこか真摯な眼差しで。
「…ゆやさんに、渡そうと思ってたんですが…」
頬を染めて、若干肩を落とす漢を、ゆやは見ていた。
「私…貰ってもいいんですか?」
「も、もちろんですっ!わ、私は、紅はどうでもいいんですが、ゆやさんが紅をすると綺麗だと思うし、今のままでも十分綺麗なんですが、だから、その、ああ、何を言ってるんだっ…!」
自分が何をいってるのか解らなくなりつつあるアキラをみて、ゆやは微笑んでいた。とても幸せそうに。
「アキラさん」
「は、はいっ!」
ゆやに呼ばれ、アキラは思わず背筋を伸ばしていた。
「…私、紅を塗ったこと、ないんです」
「そ、そうですか…」
「これを貰っても、どう塗ればいいのか、わからなくて…」
つまり、寒紅は受け取れない…という答えなのだろうか。アキラは足下が崩れ転落していく幻覚を見た。ゆやの言葉の続きを聞くまでは。
「アキラさん…塗って貰えますか?」
「え」
意外な言葉に、アキラの頭の中は真っ白になる。信じられない言葉を、耳にした気がした。
「…やっぱり、駄目ですか…?」
ゆやは顔を真っ赤に染めて、うつむいている。アキラは、その前で莫迦みたいに突っ立っていた。
これは、アレか?アレなのか?俗に言う…据え膳?ゆやさんが?自分は、立ったまま都合のよい夢をみているのかもしれない…た、確かめねば…!
アキラは、かすかに震えるゆやの肩に手を置いた。温もりが感じられた。夢では、なかった。
「ゆ、ゆやさん…」
最後の理性のかけらでもって、アキラは声を絞り出す。
「…誤解、しますよ…?」
「誤解じゃ…ないと思います…」
かぼそい声で、ゆやが答えたとき。アキラの理性は、音をたてて千切れる。
次の瞬間、腕の中にゆやを閉じこめていた。
「す、好きです…!」
そう耳元に告げると、ゆやが微笑む気配がする。
「私も…アキラさんが、好きです」

舞い上がったアキラは周囲から突き刺さる恐ろしいほどの殺気に、全く気づいてはいない。
「…やっぱ、死合うか」
「アキラ、ずるい」
屋根の上から抱き合う二人をみているのは、サスケとほたる。
「ア〜キ〜ラ〜〜っ!」
「……あいつも隅におけねーな…」
おどろおどろしい暗雲を纏っている灯と、親父な感想をしみじみと漏らす梵天丸は、廊下の角にいた。
アキラが今夜を生き延びられるかどうかは、まだ誰にもわからなかった…。