鬼姫

秋になると、山は衣替えを始める。緑の装束をぬぎすてて、年に一度の晴れ着をまとう。紅に朱、黄色に山吹、燃え立つように華やかな装いをするのだ。そんな風景は、旅人の目を楽しませてくれる。
「この山には、曰くがあるらしいよ」
ある山にさしかかったとき、嬉しげに幸村がきりだした。その山もまた、季節に従い美しく装いを始めていた。
「曰く?幽霊でもでるのか?」
梵天丸が胡散臭そうに、問いかける。
「幽霊なんかじゃないよ。たぶん、梵ちゃんも興味があるとおもうな」
ふふふ、と嬉しそうな幸村。麓の村で仕入れたうわさ話を、したくてしょうがないらしい。
「どんな話だ?」
「ちょっと長い話になりそうだから、一休みしない?せっかくのいい景色だしね」
紅葉の天蓋を楽しみたいらしい幸村がきりだすと、だいぶ歩き続けていたこともあり一行は休憩をとることになった。腰をおろした狂は、さっさと煙管をとりだして一服し、梵天丸と幸村は噂話しに花を咲かせる。紅虎や阿国も興味深そうに聞き入り始めていた。
ゆやも仲間に入ろうとしたが、せせらぎの音を耳にしたとき気をかえた。竹筒の水を、補充しようと思ったのだ。
音をたどろうと、きょろきょろし始めたゆやに、サスケが声をかける。
「何してるんだ?」
「水を汲もうと思って。ほら、水音がするじゃない」
ゆやの言葉通り、風にのってかすかな水音がしていた。そんなに離れてはいないようだ。
「ああ…汲んでこようか?」
サスケが言うと、笑ってゆやは首をふった。その変わり、ちょっと自信なさそうに確認をとる。
「大丈夫。えっと、あっちでいいわよね?」
「うん。間違いない」
「サスケくんが言うなら、安心。それじゃ、ちょっと行ってくるから」
がさがさと茂みをゆらして、ゆやが木立の中に消えていく。はらはらと散る紅い葉に、サスケは一瞬だけ不吉なものを感じた。だが、あたりに危険な気配はない。気のせいだと思いながらも、胸の内には一抹の不安が残っていた。

「それで、どんな話なんだ?」
梵天丸が幸村に話の先を催促すると、幸村は好色な笑顔をみせた。
「この世のものとも思えない、美女の話」
「おおっ…!」
つられて梵天丸も身をのりだしてくる。紅虎も、なんだか嬉しそうな顔をした。
「ここは逢姫山って呼ばれててね。今みたいな季節の変わり目には、どこからともなく笛の音が聞こえ、この世のものとも思われぬ美しい姫が供を従えて現れるんだって。実際、この世のものじゃないらしいけど」
あっさりと付け加えられた言葉に、梵天丸と紅虎は首をかしげる。話のオチが読めたらしい阿国はくすくすと笑い始めていた。
「は?」
「何でも、その姫君の一行を見たモノは、決して生きて戻れないとか。姫君がとって、喰っちゃうせいらしいよ〜」
艶話かとおもったのに、実は怪談だったらしい。
「……そんな姫はいややなぁ」
「姫は姫でも、鬼姫か」
紅虎と梵天丸は、顔を見合わせてため息をつく。幸村はなおも話を続ける。
「麓の村では、ここは魔の通り路で有名らしい。山に入って帰ってこない人もけっこういるんだって。まあ、鬼姫がでてもおかしくないような風景だけどね」
紅葉谷に住むのは、鬼女だったろうか。あやなす錦の天蓋は、そんな伝説を真実とするような迫力のある美しさだった。一同は、一瞬声をなくして景色に見入った。やがて阿国の、うっとりとした声音が響く。
「ちょっと、ドキドキする話ですわね」
我にかえった梵天丸は、景色をふふんと鼻で笑った。
「ま、鬼姫なんざ、俺さまの敵じゃねーけどよ。あれ?ゆやちゃんは?」
足りない少女を捜してきょろきょろとすると、サスケが答える。
「さっき水汲みにいったぜ」
ゆやが出て行ったのは、狂も当然承知だった。直にかえってくるはず、と一同はまた別の噂話を始めたのだが。しばらくして、阿国が心配げに顔をめぐらせた。
「…ちょっと帰ってくるの、遅くありません?」
はた、と漢たちも気づく。あたりに危険の気配がないと、危機感がどうしても薄れていた。
紅虎が、先ほどきいた話を思い出して思わず呟く。
「ま、まさか鬼姫に…」
「んなわけが、あるか!」
げしっと紅虎を殴り倒す梵天丸も、実は心中で同じ事を思っていた。
とりあえず、一同はゆやが向かったという水場へと向かう。
「おーい!ゆやちゃーん!」
「ゆやはーん!返事してやー!」
向かいながら、声をはりあげるが返事はない。人の気配もなかった。たどり着いた湧き水のほとりにも、誰もいない。ただ、ぬれた布が落ちていた。
「ゆやさんの手ぬぐいだね。ここに来たのは、間違いない」
布を拾い上げ、幸村は確認する。何となく、嫌な空気が立ちこめ始めていた。あたりを調べていたサスケが声をあげる。
「幸村、これ…!」
「……これは…」
サスケの元に行った幸村は、顔をしかめる。後ろからのぞき込んでいた梵天丸がうなるような声で言った。
「熊の足跡だな」
「まさか熊に…」
紅虎が青ざめるが、阿国は冷静に状況を分析して告げる。
「熊に襲われるよりも、驚いて、そこから墜ちた可能性のほうがありますわ」
「なにーっ!」
阿国が示したのは、小さな崖になった場所だった。シダがおいしげって、一見隠されているが崖になっているのは間違いない。
「みてくる」
下を見下ろしたサスケは、迷いもなく身を躍らせていた。あっという間に姿がみえなくなるが、すぐにまた戻ってきた。息を乱すことなく戻ってきた手には、行きにはなかったものが握られている。
「ど、どうだった?」
「下はそんなに深くない。細いけど、路になってた。何かが墜ちた形跡はあるけど、ねえちゃんはいない…でも、これがあった」
紅虎が聞くと、サスケは説明しながら手にしたものを差し出す。
「ゆやちゃんの竹筒か。獣に襲われたとか…」
「山犬や熊の足跡はなかったぜ」
梵天丸が嫌な想像をするが、サスケは言下に否定した。もしも襲われたなら、布なり血の後なり、残っていなければならない。崖下に、そんなものがなかった自信はある。
うそ寒い表情をしながら、阿国が呟いていた。
「まるで…神隠しですわね…」
そのとき、それまで一行の後ろで何をするでなく黙っていた狂が、ためらいもなく崖を降り始めていた。
「…………」
身軽な姿は、さきほどのサスケに劣らぬ速さで危なげもなく崖を下っていく。
「おい!何処にいくつもりだ!」
梵天丸の制止など、まるで聞こえてはいないようだった。あわててその後を、梵天丸と紅虎、サスケが追っていった。幸村は小さく笑いながら、後ろ姿を見送る。
「ゆやさんが心配なんだねぇ」
「幸村さんは心配じゃありませんの?」
「もちろん、心配ですよ。阿国さんもでしょう?」
顔を見合わせた阿国と幸村も、互いに肩をすくめながら崖下に消えるのだった。

崖下は、サスケの言ったとおりになっていた。獣路というほどではない。たまには人間が通ることもあるような細い路だった。降り立った狂は、あたりを一睨みすると一つの藪へと足をむける。
「?狂はん、何を…」
続いて降りてきた紅虎らが首をかしげる間もなく、狂は藪に斬りつけていた。
「!」
すると頭をかかえて細身の老爺が、藪から転がりでてくる。老爺は抜き身の刀をもつ狂、ガラの悪そうな紅虎と梵天丸をみると、身体を丸めて叫んでいた。
「ひえぇぇ〜〜お、お助け〜〜!」
話しかけても怯えて「ひえ〜」としか答えない老爺に、梵天丸や紅虎がほとほと手を焼いた頃。後から降りてきた幸村と阿国が老爺に話しかける。
「お爺さん、どうしました?」
「何か、ご用ですの?」
顔をあげた老爺は、幸村と阿国をみると安心したらしい。ぜぇぜぇと息を整えながら、ようやく話し始めた。
「わ、儂は、この先に住んでいるのですが、先ほど怪我人を見つけまして。お侍さまたちが、良い薬をお持ちでしたら、分けていただこうと…」
それは彼らが探していた情報だった。思わず紅虎が口をはさむ。
「そ、それは金髪でツッコミがナイスで、ちょっぴりがめつい16才では!」
「は?…子細はわかりませんが、かわいいお嬢さんでした。みなさん、ひょっとしてお連れの方で?」
紅虎の言葉に、老爺は首をかしげつつ、問いかけてくる。幸村はそつなく話をつなげた。
「そうなんです。急にいなくなって、心配してたんです」
「それはよかった。ささ、こちらですよ」
老爺は立ち上がると、案内に立った。ひょこひょこと歩き始める老爺の後ろを、一行はついていく。どこか怪しい老爺ではあったが、ゆやの手がかりは他になかった。
「うちの主人が見つけたんですよ。ひどく気に入られて、もし身寄りがなければ、引き取るとまでおっしゃられて。残念ですが、お連れがいるのでしたら、諦めてもらうしかありませんなぁ」
上機嫌に話しながら、老爺は進んでいく。やがて目前に、山中に不釣り合いな屋敷が見えてきた。
屋敷は、美しく豪奢な造りだった。老爺は、どうぞどうぞと一行を案内する。不思議なことに、人の気配のない屋敷だった。
老爺は彼らを部屋に案内すると、主人を呼んでくるといって席をたった。通された板張りの部屋で、きょろきょろとしながら梵天丸が圧倒されたように呟く。
「…なんか、すげー家だな」
「都の貴族の館のようですわね」
部屋にある几帳や調度をみわたし、阿国も感心した声をだす。紅虎やサスケは、居心地が悪そうだった。狂は部屋や屋敷には無関心に、片膝を立てて座っている。
幸村は、若干、冷や汗を流しながらぼやいていた。
「あー…何だか、ちょっと嫌な予感がするなぁ」
「何がだよ、幸村」
「あの話は、噂話だと思ったんだけどね」
幸村の言葉で、梵天丸も噂話を思い出していた。山中、不釣り合いな豪奢な屋敷。梵天丸も、背筋に冷たいものを覚える。
「あの話って……まさか鬼姫か?」
そう、声を潜めたとき。スコーンといい音がして、飛んできた檜扇が梵天丸の後頭部を直撃していた。
「いてっ!」
思わず振り返ると、そこには。
絶世の美女が立っていた。
「誰が、鬼姫じゃっ!」
一同は眼を見張った。何の気配もなかったのだ。これほどの達人がいて、誰一人、美女が近づいていることに気がつかなかった。しかも美女は数人の侍女をひきつれて怒りまくっている。
黒髪は背丈よりもながく、纏っているのは目にも鮮やかな襲の十二単。どこからどう見ても、姫という形容詞以外思い浮かばないが…檜扇を梵天丸に命中させたのも、どうやら彼女のようだった。
「姫さま、姫さま、落ち着いて…」
怒りに震える姫君を、侍女が口々になだめているが、彼女には聞こえていないらしい。
「これが落ち着いていられようか。人を食うやら、鬼姫やら、まこと人の噂は根も葉もないでたらめばかり。妾は人の子をとって食うたことなど、一度もありはせぬ!」
怒りにまかせて発せられた言葉には、とんでもない意味が含まれていた。理解した一行は、さーっと青ざめるしかない。変わらないのは、不機嫌な狂だけだった。
人外魔境に踏み込んだのを確認し、どう反応すればいいのか固まっている彼らに助け手があらわれる。先ほどの老爺だった。老爺は彼らと姫君の間にわってはいり、とりなしを始めた。
「そうですとも。この者たちも、重々わかっておりますとも。な、そうであろう?」
老爺が目配せをおくると、すばやく立ち直った幸村が同意する。
「も、もちろんです!ね、紅虎さん!」
「当然やがな!」
話をふられた紅虎も、ぶんぶんと首を縦にふった。姫君は、しばらく彼らを睨みつけていたがやがて視線をそらすと、老爺に問いかける。
「わかっているならば、よい。したが橘の爺よ、何故に人の子をわが館につれてまいったのじゃ?」
「この者達は、姫さまが拾われた娘の連れでございますので」
老爺がそう説明すると、姫君は眉を曇らせた。
「…迎えに来たと申すか」
「はい。あの娘も、待っている者の元へ戻るのが幸せでございましょう」
にこにこと上機嫌の老爺とは対照的に、姫君は不機嫌になっていくのがみてとれる。彼女は侍女から渡された新しい檜扇を口元にあてると、ぷいっと横をむいて言った。
「……嫌じゃ」
「姫さま!」
叱責する老爺の声には耳もかさず、つんと顎をそらして姫君は言い放つ。
「あの娘は妾が拾ったゆえ、妾のものじゃ。そのように血と汚穢にまみれた連れのもとに戻すより、この禁域で現世を忘れ、ゆるやかに暮らすほうが、娘のためじゃ」
「姫さま、わがままを申されては…」
高飛車な態度に侍女たちも思わずとりなしをいれるが、姫君はまったく悪びれずに重ねていった。
「嫌といったら嫌じゃ!」
わがまま姫の言動に、気分を害した梵天丸は拳をにぎりしめた。
「この…」
だが行動に移す前に、幸村が制止する。
「梵ちゃん、おちついて。サスケもトラさんも。ここは、相手の領地だ…何をされるか、想像もつかないよ」
その声に頭を冷やされた。目の前でわがままを言っている姫、とりなす侍女、相当数の人物がいるはずなのに、あるべき気配がほとんど存在しない。たしかに彼らは人ではないようだった。そして此処は、かれらの領域だった。何がおこるのか、判断のしようがない。
阿国が目の前の主従の会話を観察しながら、付け加えた。
「……少なくとも、あのお爺さんは私たちの味方のようですし。説得に期待しましょう」
いっぽう彼らに観察されている、主従は。頑固な姫君に、老爺が疑念を募らせていた。
「姫さま、なぜにそうも頑なに…まさかとは思いますが…」
疑いの眼をむけると、姫君はさっと檜扇で顔を隠す。侍女の一人が、そっと老爺に耳打ちをする。
「た、橘さま、実は先ほど……」
「何と!爺に断りもなく、あの娘を女官に任じたというのか!姫さま、なんということを……」
自分が留守の間のことを説明され、老爺は頭を押さえていた。自分の所行がバレたとしると、姫君は開き直って言い放つ。
「この館の主は、妾じゃ。気に入った娘を女官に任じて、何が悪い」
「そういう問題ではありませぬ!娘にかけた術を解くのが、面倒なだけなのでしょう!」
「…………」
老爺に言われると、あさっての方向をみつめ姫君は返事をしない。
ここで話題にされている娘がゆやでなかったら、それはそれで微笑ましい主従の姿ではあるのだが。
ゆやに何がしかの術がかけられたとは、心穏やかでは聞いていられない話だった。
サスケと紅虎は姫君をみながら、こそこそと会話していた。
「図星みたいだぜ」
「なんつー姫やねん」
その間も老爺は説得工作に余念がない。叱責が無駄だと判断すると、今度は泣き落とし路線に転向していた。よよと袖で目頭を押さえながら、涙ながらに訴えている。
「姫さま、爺は情けのうございます。季節を司る五節の舞姫の中でも、ひときわ輝く優しい心をお持ちの姫さまが、弱き人の子の運命を、ご自分の術で弄んでしまわれるとは……」
老爺の名演技につられて、侍女たちも姫君に懇願をはじめる。涙ぐんでいる侍女もおり、その場は愁嘆場と化していた。
毅然として意地を張り続けていた姫君も、さすがに絶えかねたらしい。檜扇をふって、とうとう妥協した。
「……ええい、辛気くさい!橘の爺にめんじて、娘は帰してやろう。ただし!その者らが、この中から娘を正しく選ぶことができたならばの話じゃ」
姫君は、挑戦的に一同をみた。この中、と示されたのは、姫君につき従う数人の侍女たち。いずれも美しい女官装束をまとい、額には黄金の平額が輝いている。黒髪は綺麗にゆいあげられ、なによりも彼女たちの顔は。
「……同じ顔ばっか」
ぼそりとサスケは呟いていた。侍女たちの顔は、美しくはあるが皆、同じ顔だったのだ。双子よりもそっくりで、人形を並べているようにも見える。
「ちょっと怖いね」
さすがの幸村も、対応に困っていた。ゆやを思わせる侍女は、一人としていない。
姫君は、ふふんと何処か自慢そうに言った。
「妾の術がかかっておるゆえ、本人は己が人の身であることを忘れておる。選べるものなら、選んでみるがよい」
侍女たちは顔をみあわせる。おそらく彼女たちも、仲間の誰が人間なのかわからないに違いない。
「姫さま…それは無理でございます」
「そうですとも。姫さまだって、しょっちゅう我らを間違っておられるではありませんか」
無茶な要求をする姫君を、侍女たちは口々に諫めていた。その台詞に、幸村はますます頭をかかえる。
「うわー…最悪」
「弱ったのう…お主ら、坊主めくりは得意か?」
彼らのために頑張って交渉していた老爺も、困り果てていた。もはや運を天にまかせるしか方法はない、と言いたげな口調だった。しかし、まかされた方はそうもいかない。
「そーゆー問題じゃねーだろ」
梵天丸は真剣に侍女たちを見比べる。サスケや紅虎も、阿国や幸村も注意深くみるのだが、相違点は何一つ見つけられなかった。
「どうじゃ?見分けはつかぬか?その中の一人は、偽りなくそなたらの連れの娘じゃぞ」
自分の術に絶対の自信があるのか、姫君は勝ち誇った口調だった。うーんと皆が考え込むなか、すいっと狂が立ち上がった。
「……見分ければ、いいんだな」
そういって足を侍女たちに向ける。
「狂さん、何を…!」
不穏な空気を感じ、幸村が止めにはいるよりも速く、天狼が白刃を輝かせた。迷いもためらいもなく、狂は侍女に斬りつける。
「きゃああぁっ!」
「無礼者っ!」
天狼は侍女をかすめた。逃げまどう侍女たちの悲鳴と、姫君の叱責が飛ぶ。屋敷の全てが一瞬にして敵意をもち、騒然となる雰囲気の中、狂は一人の侍女に狙いを定めた。
彼女だけが、天狼から目をそらさなかった。
白刃をおそれることなく、真っ向から見つめかえした。
どれほど姿を変えられても、記憶を封じられても。
その意志の宿る瞳を、狂が間違えるはずはない。
「みつけたぜ…こいつだっ…!」
「!」
天狼の切っ先が、彼女の平額をはねとばした。かしゃん、と軽い音をたて平額が床に転がる。狂が腕をつかむと同時に結い上げられていた黒髪がほどけ…次の瞬間、金色の髪に変わっていた。
「…あ…き、狂……?」
腕をとられ、突然夢から覚めたかのように呆然と、ゆやは狂を呼んだ。
「ゆやはんやー!」
「ゆやねえちゃん!」
姫君の術がとけたゆやの周りに、紅虎やサスケが走り寄る。
「え?何で…」
彼らに囲まれて、ゆやは何がなんだかわからない表情をしていた。
「何と乱暴な!わが館で抜刀するとは!」
聞き慣れない女声に顔をあげると、絶世の美女が怒りも露わにたっている。彼女は狂に怒りをぶつけているようだが、狂本人は何処ふく風で、かえって彼女を睨んでいた。狂にしてみれば、目の前の存在は自分の邪魔をした存在にしかすぎなかった。たとえそれが、人ではなく精霊の類だとしても。
怒りにふるえる姫君を、老爺があわてて取りなしていた。
「姫さま、どうか…」
「…不愉快じゃが、約束は、約束じゃ」
姫君はため息をつくと、あきらめたように言った。それから改めて、ゆやを見つめる。その瞳は慈愛に満ち、たとえようのない優しさにあふれていた。姫君は、そっとゆやに近づき瞳を見つめた。抜き身の天狼も、刺すような狂の殺気も全く意に介した様子はない。そうして残念そうに口にした。
「冬枯れの間……常磐木の若緑を側に置きたかったが、しかたあるまい」
ゆやは、直感的に思った。彼女に、礼をいわねばならない、と。理由は自分でもわからなかったけれど、礼を言わねば、自分は後悔すると思った。
「あの…、あ、ありがとうございます」
ゆやがそう言うと、姫君は笑顔を見せた。絶世の美女の笑みに、ゆやは魂が抜かれそうになる。次の瞬間、腕をぎゅっと握られ痛みで我にかえったのだが。
「人の世には、過ぎた娘よの。土産をもって、帰るがよい」
姫君は、微笑みながら言い残すと、裾を払って去っていく。侍女たちもそっと頭を下げて、後を追った。
一人残った老爺は、ほう、と安堵のため息をこぼしながら言った。
「やれやれ、迷惑をかけたのう。道中、気をつけてな」
そういってにこにこと笑う老爺に、阿国が礼を言った。
「お爺さんも、ありがとう」
「どうして助けてくれたんですか?」
幸村が好奇心で尋ねると、老爺はほっほっと笑いながら答えた。
「人の子には…無力で弱い存在でも、不思議な力をもっている者がおる。儂は、そういう人の子が好ましいだけじゃよ…」
そういって老爺も姿を消した。
いつの間にか屋敷も消え失せ、一行は最初に休憩した場所に立ちつくしていた。
人外の領域から放り出されたのかもしれない。
相変わらず捕まれていた狂の腕を振り払い、ゆやは途方にくれて阿国に問いかける。
「…いったい、何がどーなってるんですか?」
「ゆやさんこそ、どうしてたんですの?」
反対に問い返され、ゆやは一生懸命思い出しながら答えた。
「水を汲みにいったら、熊と鉢合わせちゃって…それから記憶があやふやで…気がついたら、狂がいるし…」
「そうですわねぇ…どこから説明しましょうか」
「説明して貰わないと、この格好もどうしていいのか…」
阿国は楽しそうにゆやを見ていた。ゆやの姿は、姫君に着せられたであろう女官装束のまま。最上級の絹でつくられ金糸銀糸のぬいとりのある豪華な衣装。絵巻物から抜け出してきたようだった。売れば相当の値がつくことは、間違いない。
「袿に單に袴に裳。見事な女官装束ですこと。よいお土産をもらいましたわね」
「ゆやはん、似合ってるで〜♪」
「俺も、そう思う…」
「女の子は、やっぱり華やかなほうがいいな、うん」
「この場合、ゆやさんが彼らのお眼鏡にかなったんだろーね」
口々に感想をいわれても、ゆやにはさっぱりわからない。
「だから、説明してくださいってばっ!」
叫ぶゆやの背後で、鬼眼の漢は、黙って煙管に火をつけて一服する。
取り戻した下僕の、珍しく着飾った姿を楽しみながら。


※姫さま&家来一同は、河村恵利さんの少女漫画「ひなの路参り」「ひなの里」からの登場です※