下駄

旅籠に泊まったときだった。
ほたるが風呂に向かっていると、風呂から帰ってくるゆやと出くわした。
「ほたるさん、これからお風呂ですか?」
「うん」
「狂たちは…」
「…まだ飲んでる」
「そうですか」
短く答えると、ゆやはため息をついた。
「私、自分の部屋に行きますから。大部屋の方には戻らないって、皆に伝えておいて下さい」
「…うん。覚えてたらね」
「…まあ、伝わらなくても大丈夫だとは思いますけど……それじゃ、お休みなさい」
「うん。お休み」
風呂上がりの柔らかい香りをはなちながら遠くなるゆやの後ろ姿を見送って、ほたるはふと首をかしげた。
「……あれ?」
何だか、いつもと違うようなカンジがしたのだ。
何処が違ったのか、ちょっと考えてみる。髪を下ろしていたことか、浴衣を着ていたことか、風呂上がりで血色がよかったことか。いろいろと思い出してみるが、どれも違うような気がした。
「ま、いっか」
考えるのに疲れたほたるは、あっさりと思考を放棄した。
その夜は、それっきり忘れたが、翌朝、また廊下でゆやと出あった。
「おはようございます、ほたるさん」
「………おはよう」
挨拶を交わしたとき、昨晩の奇妙なカンジを思い出す。それは、今もやっぱりあった。無表情に、ほたるは考えた。
何が違うのだろうか。旅籠の外では、感じたことのない違和感。それは不快なものではなく、むしろ好ましいカンジなのだ。
じーっとゆやを見つめたまま動かないほたるに、ゆやは困っていた。
何か言いたいことがあるのかもしれないし、実は何も考えてないだけなのかもしれない。ほたるの天然さを度々目撃しただけに、こういうとき、どう反応していいのか悩んでしまう。このまま行っちゃおうかな…と思い始めたとき。
ずいっとほたるが近づいてきた。
「ほ、ほたるさん…?」
ゆやの声に耳を傾けることなく、ずずいっとほたるはゆやに接近する。後じさっても、すぐ廊下の壁に背中がくっついてしまう。壁とほたるに挟まれて、ゆやは途方にくれた。ほたるは相変わらず無表情で、まじまじとゆやをみつめながら、ぼそりと呟いていた。
「…こういう顔だっけ?」
「私は、昔からこういう顔ですけど……」
これだけ見つめられたあげく、狂のようにチンクシャ扱いされたら嫌だなぁ〜と思いつつ、ゆやは答える。幸いなことに、ほたるはそういう事は口にしなかったが。
「なんか、いつもと違う…化粧とか、してないよね?」
「は、はい……」
自分を見つめながら、顔を近づけてくるほたる。息がかかるほど顔をよせられ、思わずゆやはしゃがみこんでしまった。
「あ、あの、何なんですか…?」
しゃがみこんで下からほたると見上げると、ほたるは少し驚いた顔をしていた。
「いつもの顔……あれ?」
しばらく首をかしげ、自分もしゃがむとまっすぐにゆやと視線を合わせる。
「こうしてると、またちょっと違う……なんで?」
「なんで…って、角度が違うからだと思うんですけど…」
「角度?」
「ほ、ほたるさん、いつもは高い下駄を履いてるじゃないですか。だから外にいるときと、旅籠とかで脱いでるときと、視線の角度が違うんですよ、きっと」
「……あー…そっか。なるほど」
ゆやに指摘されると、ほたるはうんうんと頷いた。それからすいっと立ち上がると、ゆやに手を差し出す。
「わかった。すっきりした」
無表情ながらも、嬉しげな雰囲気が伝わってくる。差し出された手につかまり、立ち上がりながら、ゆやはほっと一安心していた。
これで解放してもらえるかな、と思っていたのだが。ほたるはゆやの手をつかんだまま、放さない。
「あの、ほたる…さん…?」
首をかしげて問いかけると、不意に視界が暗くなる。え、と思う間もなく、ほたるに口吻けられていた。
「…この角度って、口吻けしたくなる角度だよね」
「○×△×□◇※〜〜!」
言葉にならない恐慌状態に陥るゆやに、淡々とほたるは告げる。
「いいことに気づいて、よかった、よかった。それじゃ、また」
飄々と去っていくほたるの後には、ほたるの奇行(?)に振り回されて、真っ赤に頬を染めたゆやだけが残されていた。
だが、奇行はその場限りではなかったのだ。以来、旅籠等で下駄をぬぐと、ほたるは何喰わぬ顔でゆやに口吻ける。しかも周囲に誰もいないのを見計らって。数度繰り返され、とうとうゆやが切れたとき。
「ほたるさん!いいかげんにして下さい!」
「何で?」
「からかわないで下さい!く、口吻けは、好きな人とするものなんです!」
「うん。俺、ゆやが好きだから、口吻けするんだけど」
じつに当然のような、あっさりとした告白をされるのだった。

【余談】
「…ほたるさんは、何で高い下駄を履いてるんですか?」
「アレを履くと、辰伶と同じ身長になるから。辰伶に見下ろされるのって、嫌だし」
「……(やっぱり)」
えっへんと胸をはるほたるを、ゆやは困ったように微笑みながらみていた。