髪結

本当は、近づきたくなかった。
殺されかけた恐怖は、なかなか拭えるものではない。
それでも…目の前の不器用な姿は、ゆやをイライラさせる。
三回、失敗を目撃し、四回目に挑戦している姿(失敗が予測される)を見て、ついに意を決した。側にいた梵天丸に、頼み事をすると呆れたように笑い、肩をすくめながらも承知してくれた。それで、ようやくゆやは足を進めることができた。ぼーっとしてるほたると、背中合わせで座っている辰伶の元へと。

四回目に失敗して、辰伶ははーっと一息ついていた。白虎にやられた身体は、なかなか思うように動かない。傷の手当てをする前に、邪魔な髪をくくろうとするのだが。ちぎれた紐が短いのと、腕が上がらないため、なかなかくくれないのだ。ふと自分に近づく気配に顔をあげる。そこには、ひきつった顔をしたゆやが立っていた。
「………?」
何故、彼女が自分に近づいてくるのか理解できず、辰伶は首をかしげる。
ゆやは、どこか怯えた風情が残っていた。死の寸前まで追いつめられたのだから、当たり前といえば当たり前かもしれない。それでも瞳には強い意志があった。まっすぐに辰伶を見つめ、話しかけてくる。
「あのね、見ててイライラするの。そんな短いので、髪が結べるわけないでしょ。腕だって、上がってないし」
「笑いにきたのか?」
侮辱されるのは、性に合わない。むっとした顔で言い返すと、ゆやの方もまた、怒った顔をした。
「違うわよ!笑えないから来たんじゃない!そこに座って、絶対動かないで!いいわね!」
「そうそう。もし動いたら、梵天丸さまが黙っちゃいないぜ?」
ニヤリと梵天丸が、ばきばきと指をならしながらゆやの背後にそびえたつ。満身創痍の自分と、無傷の梵天丸では勝負にならない。ため息をつきながら、辰伶は言い放っていた。
「……勝手にしろ」
負けを認めた自分は、何をされても甘んじて受けるしかないと思っていた。
「勝手にさせてもらいますからね!」
ゆやはすっと辰伶の背後にまわった。殺気も害意も感じなかった。ただ、柔らかい気配が近づく。
そっと、首筋に細い指先が触れた。驚いて、振り向こうとするが、できなかった。
目の前で、梵天丸が獰猛な笑みを見せた。視線があったときに感じた。今動けば、間違いなく殺されると。
その間も、ゆやの細い指が辰伶の髪をすくい取る。
櫛があたる感触がした。自分の髪を他人に梳かされるのは…物心ついて以来、初めてだった。
背後で何がされているのか。辰伶は予想もしていなかった驚きで、動けなくなる。目の前では梵天丸がにやにやと人の悪い笑みを浮かべ。自分を監視していた。
「…何してるの?」
不思議そうにほたるがゆやの手元をのぞき込んでくる。
問われて、ゆやは怒ったような口調で答えていた。
「髪を梳かしてるんです」
「なんで?」
「そうしないと、きれいに結べないじゃないですか」
辰伶の髪を丁寧に櫛で梳かすゆやの手元をみながら、ほたるは何処か不機嫌そうにつぶやいていた。
「…適当でいーじゃん。辰伶なんだし」
「髪がザンバラなのって、何かイライラするんです。辰伶、結ぶの下手だし」
はっきりとゆやに言われて、思わず辰伶は口を挟んでいた。
「失敬な。いつもはきちんとできる」
「今、できない人は黙ってて」
「………」
事実を指摘されては、苦虫を噛み潰した表情でもって黙るしかない。死合でバサバサに乱れていた髪は、いつの間にかきれいに梳かしつけられていた。
「……その布は?辰伶のじゃないよね?ひょっとして、自分の?」
「しかたないんです。髪紐、ちぎれちゃってるし。私の予備で不満でしょーけど、我慢して貰わないと」
髪を結ばれるのは、不思議な感覚だった。自分の背後で、ゆやがどんな表情をしているのか、辰伶は見たくてたまらなかった。
そんな葛藤を知らぬげに、ほたるはぼそぼそとゆやに話しかけていた。
「…もったいない。赤ならあんたの髪の方が栄える。あんたが今してる白っぽいので辰伶には十分」
「銀髪に、白は似合わないからダメです。赤の方がいいんです」
「………なんであんた、辰伶に似合う色、考えてんの?」
心底不思議そうにほたるに問われ、ゆやの手が止まる。たぶん、自分でも自覚はなかったのだろう。
「そ、それは、その、えっと、私の趣味の問題なの…っ!」
背後から聞こえるしどろもどろなゆやの声に、辰伶は笑いをこらえきれなくなる。肩をふるわせ、くっくっと笑う辰伶の姿に、ゆやは思わず結んだばかりの髪をひっぱっていた。
「ちょっと、笑わないでよ!」
「…っ!あまり力を入れるな。傷が痛む」
「あ、ご、ごめんなさい…」
反射的にあやまってくるゆやに、辰伶は心が温かくなるものを感じた。
「大したことはない…髪を結んで貰えて、助かった。もう、動いてもいいか?」
「え、ああ、どうぞ」
了解を得てから、ゆっくりと振り返る。背後のゆやは、案じるような表情をしていた。自分を殺そうとしていた漢の身を案じるなんて、馬鹿な女だと思う…だが、不快感はなかった。反対に、心地よく秘密めいた感触がある。
それを何と呼べばいいのか。確かめたい、と辰伶は強く思った。……もう今更、手遅れなのだとしても。