熊野

桜の季節には、まだ少し早かった。
旅籠の窓から、ゆやは雨をみていた。
「花は…散らないよね」
つぶやきを聞きつけた阿国が、柔らかく笑いながら口にする。
「大丈夫ですわ。まだ一分か二分咲きですもの」
「そやで、ゆやはん。花見はもうちっと先やで〜」
紅虎は、相変わらずのお調子者っぷりだった。その他の面々は聞くとももなしに、彼らの会話に耳を傾けている。
「花見かぁ。それもいいね…」
雨に濡れる桜をみるゆやは、どこか元気がない。阿国は、少しだけ心配になった。彼女は彼女なりに、元気のよい少女を気に入っているのだ。
「春雨に思い出でもあるんですの?」
「うーん…阿国さんなら、知ってるかな?『春雨の降るは涙か桜花 散るを惜しまぬ人しなければ』って」
「古今ですわね。大伴黒主でしたかしら」
「えっとそこまで詳しくはないんだけど。なんか雨と桜をみると、思い出しちゃうの」
雨に濡れる桜をみながら、ゆやはつぶやく。
「兄様が、春に教えてくれたの。綺麗な和歌だなぁと思って…」
「確かに。綺麗ですわねぇ…今の時期にぴったりですわ」
話の弾む女性陣。しかし居合わせた男たちは、何を話しているのかちんぷんかんぷんだった。
「…バカ虎。ねーちゃんたち、何の話してんだ?」
「わいにもわからん…」
サスケと紅虎はこそこそと相談すると、あたりを見舞わす。居合わせた漢たち…狂は煙管をくゆらせながら我関せずで、梵天丸は目を合わせようとしない。二人には期待できそうになかった。残る最後の一人は、にっこりと満面の笑みを浮かべている。
「やだなートラさん、梵ちゃんも。小さい頃、習わなかった?古今集」
「習ってへん」
「そんなモン、記憶にねーよ」
首をふる紅虎と、フン!と胸を張る梵天丸。一国の大名とも思えない開き直りだった。
「知ってるなら、教えろよ。ねーちゃん、何の話してんだ?」
サスケが聞くと、幸村はますます嬉しそうに答えた。
「あの和歌の意味は『春雨が降っているのは桜が散るのを惜しむ私の涙なのだろうか』って意味。ゆやさんのお兄さんは、教養が深かったみたいだね。ああ、だから、ゆやって名前なのかな?」
「…一人で納得するなよ」
むーっとサスケの機嫌が悪くなる。気づいた幸村は、アハハと軽く笑った。
「ごめん、ごめん。謡曲っていうか、能にあるんだよ。『熊野(ゆや)』って演目。平家の時代で、平宗盛に仕えてた美女の名前が熊野(ゆや)。でも東の国のお母さんが病気になって、帰りたいけど宗盛は帰してくれない。花見の宴で突然の雨に舞う桜の花を見ながら母への気持ちを歌ったら、ようやく帰郷をゆるされたって話。たぶん、ゆやさんと阿国さんは、その話をしてるんじゃないかな」
「手放したくないってのは、よっぽどの美女だったんだな」
ふんふんと梵天丸が頷きながら言葉をはさむ。
「うーんどうだろう?ボクとしては、宗盛は熊野(ゆや)の心根の方を愛してたんだと思うよ。京にいて時の実力者に寵愛されて、どんな栄華も思うがままなのに、全部捨ててもいいから病気の母の看病をしたがるなんて。いい娘さんじゃないか」
「親孝行な人やな」
紅虎も幸村の意見に賛成らしい。親子の縁が薄いサスケは、あまりぴんとこないらしく首をひねっていた。
「…なんか、よくわかんねーけど。ねーちゃんなら、帰りたがるだろうってのは解る」
「そうだね。ゆやさんなら………許可がなくても、さっさと帰っちゃうかも」
「それはいえる。無鉄砲で考えなしなトコロがあるし」
うんうんと頷く紅虎の背後に、危険が迫っていたが。サスケも幸村も教えなかった。
「……誰が無鉄砲で考えなしなのかしら?」
「それは、ゆ………ゆやはん…き、聞いてた…?」
振り返った紅虎の前にいるのは、怒りに震えるゆやの姿。手にはしっかりと、三連発銃が握られていたりする。
どたばたと追いかけっこを始めるゆやと紅虎を、幸村は和やかな目で見ていた。
やがて紅虎はサスケに助けをもとめ、さらに騒ぎが拡大する。梵天丸は無責任に囃し立て、阿国も見物を決め込んでいる。相変わらず無関心に煙管をふかす漢に振り向くことなく、幸村は話しかける。
「今のゆやさんも……家族を大事にするだろうね。誰に愛されたとしても、身内に何かあれば全部捨てて駆けつけそうだ。まあ、ゆやさんにはもう身内の人はいないんだけど…」
背後の漢からは、何の反応もない。それは高をくくっているせいなのかもしれない。
無反応さに肩をすくめながら、幸村自身も思っていた。あの愛すべき少女に、帰る場所は何処にもない。それは残念なことだけれども、自分たちにとっては悪いことじゃないなぁ、と。
───死者が墓からよみがえる事など、この時は誰も予想などできなかった。