無垢なる刃─デモンズペインネタ

狂気の夜だった。
何かに突き動かされるように、その夜は犯罪が起こった。赤ん坊は泣きやむことなく母親たちを困惑させ、幼児は悪夢に飛び起きて泣き出した。そして占いを生業とするものの多くが正気を手放して、二度と元には戻らなかった。狂気の夜を越えて、朝を無事に迎えられた占い師たちは一握りしかなかった。そんな彼らでさえも、数日は意識が朦朧としていた。
その夜、何かが起こったのだ。だがそれを正確に知るものは、世界にただ一人だけだった。
───世界が歪む音を聞いたのは。

がばりと寝台の上でポップは跳ね起きる。
ありえない波動を感知したがゆえに。
それは、おそらく卓越した魔法力をもつモノだけがかいま見てしまった波動。この世のものではない、異界の異形の…言葉も意思さえも通じない恐怖の波動だった。全身を冷や汗で濡らしながら、ポップは夜の闇の中で震えていた。
どうしたらいいのか、解らなかった。アレは何かなどと、考えたくもない。
けれど、ひとつだけ確かなことはあった。
このまま何もせずに怯えていれば、間違いなく自分も──この世界もアレに呑み込まれ消滅するのだ。
ポップは無意識に、胸元の印を握りしめていた。
願っても、助け手は来ない。
何処にもいない……最後の竜の騎士が、空の彼方に消えてしまった世界で、最強の力を持つのは自惚れではなく自分自身だったから。
奥歯を噛みしめて、ポップは闇の中に立ち上がっていた。
彼が帰還する、その日まで───世界を護ると、誓ったのだから。
「弱きものは、滅べばいい」
嘲笑う声音に、ポップは振り向く。
小さな宿屋の寝室は一人部屋だったが、そこにはポップともう一つの人影が立っていた。
影の中に立つのは、黒い混沌のような人影だった。ポップはとうに気づいていた。空気さえゆらすことなく突然現れた影が、異形のひとつだということを。
「だが抗うのなら、楽しませてもらわねば。我々は、この次元に属さないけれど、現れてしまったものは仕方ない。不幸な事故だと思って諦めてほしいね」
「まっぴらごめんだ」
否定の言葉を紡ぐにも、全身の気力をかき集めなければならなかった。もしも、目前の存在が影のなかから這いだしたならば。正気でいられる自信はなかった。それでも、無様に怯える姿だけは見せたくなかった。もろい虚勢を理解するように、混沌の影は忍び笑いをもらす。
「あがくモノは悪くない。勝ちの決まったゲームはつまらない。ならば、ゲームを面白くしよう。受け取るがいい」
突然、床に一冊の本が現れていた。
音もなく現れたそれもまた──異界の書物だとわかる。ポップはみじろぎもせず、混沌の影と書物をみていた。
「我々が目覚めるのは、この世界の時間でいえば一週間後かな?それまでは、何もおこらない。私も何もしない──私は楽しむのが専門だからね。破壊するのではなく、破壊を見るのが好きなんだ。その時までに、君がそれを理解できていたならば…きっと楽しいだろう」
そう告げると、影は消えた。後には、ただ書物だけが残されていた。ポップはゆっくりとした動作で、書物に近づく。それは解錠の呪文を唱えなければ開かない封帯に閉ざされていた。ポップは手のひらをかざして、呪文を読み取っていく。異界の呪文だったが──理解することは可能だった。おそらく異界の、自分たちと同じ生命が生みだした魔道書。この世界に現れた、アレと戦うために。
ポップは決意を込めて、解錠の呪文を唱えていた。

約束の夜に、ポップはたたずんでいた。
傍らには、美しい少女の姿をした魔道書の化身がならぶ。
「時は、来た」
白いふわふわとしたドレスを纏った少女は、表情を変えることなく自分と契約した魔道士を見上げた。
ポップは両手を広げて、ひとつの名を口にした。
同時に少女の姿がほどけて、数十枚の長方形の頁となりポップを囲んで浮遊する。詠唱形態をとった魔道書は、それぞれの頁に複雑な呪紋や魔術文字をめまぐるしく表示させた。そこに描かれているのは最大最強の術式だった。

───永劫よ!
時の歯車 断罪の刃
久遠の果てより来たる虚無──
───永劫よ!
汝より逃れえるものはなく
汝が触れしものは死すら死せん…!

ポップの言霊に、浮遊する魔道書の唸りが唱和する。表面の発光紋様の律動が同調する。光と音が織りなす立体魔法陣は、空間の性質を変化させ──魔道書に封印されていた”それ”を実体化させた。