風の名前 4

風の力は、生命の息吹き。
生命を維持させ、分裂させずに保つ魂の糸。
手に触れることもなく、捉えられず、実体すらもないけれど。
この糸によって、この世界と、かの世界と、
一切のこの世に存在するものとは繋がれている。
風の糸は、生命であり、宿命であり、
宇宙を束ね、運命を織りなす───


気がついたのは、見知らぬ部屋の寝台の上だった。湿った気配が辺りに漂っている。壁は綺麗に削ってあるが岩らしい。もしかしなくても洞窟内に設けられているのだろう。だが、室内は不思議と明るい。呆然としながら辺りを見回せば、魔法使いの法衣を纏った老人が傍らにいた。
意識を取り戻したシクローンを眺めていたのは、マトリフだった。
「こりゃ驚いたな」
軽く首をふるマトリフに、シクローンは辺りをうかがいながら尋ねる。自分をここまで連れてきた、ダイとかいう変態剣士に用心するかのように。
「あんた、誰だよ」
毛を逆立てた猫のような青年の姿に、マトリフは口元を歪めていた。
「俺は、マトリフだ」
名前だけしか答えない老人をねめつけながら、シクローンは言った。
「あんたも、俺を、ポップって呼ぶのか?」
「さて、どうするかね」
肩をすくめ、どこか面白がる素振りのマトリフに、シクローンは溜め息をつく。相変わらず警戒しながらも、ふと思い付いた疑問を口にしていた。
「ポップ…って、いったい誰なんだ。何かしたのか?」
口元をとがらせながら拗ねたような口振りは、昔と同じで。マトリフは懐かしい既視感を覚える。その仕草にほだされるように、マトリフにしては珍しく淡々と<ポップ>について話していた。
ひととおり聴き終わったシクローンは、しばらく黙っていた。寝台の上に半身を起こして、膝の上に置かれた敷布をぎゅっと握り締めている。やがて上げられた顔には当惑を越えた、決然とした意志があった。
「…俺は、生まれたときからシクローンなんだ。ポップなんて名前になったことは一度もない。魔法も使えないし、モンスターと戦ったこともない!大魔道士も勇者も、俺の知ったことじゃねーよっ!俺を、ここから出してくれ!」
弱そうにみえて肝心なときに強情な性格が、相変わらずだと告げれば、目の前の青年は傷つくのだろう。マトリフは、ただ、はっきりと首を横にふるだけだった。
「それはできねーな」
「なんでだよ!」
「ダイが許さねーだろ」
ニヤニヤと笑うマトリフの背後から、完全に気配を絶っていたダイが現れる。いったい何時からいたのか全くわからなかった。唖然とするシクローンに、ダイは緩やかに微笑みかける。誘拐犯らしからぬ、微塵の後ろめたさもない笑顔だった。
「うん。だめだよ、ポップ」
「……俺は、ポップじゃないんだ!」
怒鳴って否定するシクローンは知らない。ダイのこんな笑顔が、三年ぶりだということは。それを思うマトリフの胸の内は複雑だった。表情には微塵もでなかったが。
「違うよ。お前は、ポップ。俺の、ただ一人の魔法使いだ」
ダイは、ただ愛しげな眼差しで、自分を非難するシクローン――ポップを、見詰めていた。


さんざん怒鳴り散らしても、糠に釘、馬耳東風だと理解した囚われ人は、ふてくされたように押し黙るとダイとマトリフを無私して寝台の中に潜り込んでしまった。自分の置かれた現状を、否定するように。
だんまりを決めたシクローンを残して、ダイとマトリフは場所を変える。シクローンがこの洞窟から逃れることは、万に一つも有りえなかった。
マトリフの研究室で、老人はしみじみとダイを眺めながら口にした。
「あんまり、あいつをいじめるなよ?」
「……努力は、します」
言外に込められた皮肉を理解つつも、ダイはあやふやな答えしか返せない。わずかに肩をおとすダイに、ちらりと意味深な視線を投げると、マトリフは本題を切り出していた。シクローンが気を失っている間に得た、マトリフが求めていた答えを。
「ざっと探査した結果をいうぜ。あいつ自身には、呪いも魔法もかかってない。だが、封印の痕跡がある」
真剣な顔になったダイに、マトリフは軽い口調でもって続けていた。
「わずかなヤツだがな。しかも聖なる封印だから、そうそうは感知されないタイプだ。何で聖なる封印があるのかは解らねーけどな」
言葉を切ったマトリフに、ダイは短く問い掛ける。
「解けるんですか?」
「解呪は無理だ」
あっさりと言いきった老人に、思わずダイは詰め寄ろうとするが、片手で制される。マトリフはわかりやすいダイの反応を楽しんでいるようだった。
「まあ、待ちな。あの封印は、相当、繊細に編み上げられている。あそこまで見事に編まれると、解呪は不可能だ。解呪には、封印の倍以上の技量が必要とされるからな。だがな、封印ってのは解呪しなくても解くことができるんだぜ?」
人の悪い笑みを浮かべるマトリフの次の言葉を、ダイは大人しくまつ。命令をまつ、忠実な番犬のように。
「封印ってのは、大抵、物理攻撃には備えてないものなのさ。特に聖なる封印なんて、お上品なヤツはな」
「……ポップは、大丈夫なんですか?」
しばらく口篭もったあと、ダイは問いを口にする。予期していたマトリフは、あっさりと答えていた。
「幸い、外部に封印があるからな。影響があっても、2、3日、寝込む程度だろう」
「封印は何処に…」
「俺が知るか」
ダイの真摯な声に答えるマトリフはにべもない。突き放した他人事のようだった。それが彼のポーズであることも、ダイには解かっていたが。
「だが、封印と今のあいつは切っても切れない縁があるはずだ。そうでなければ、あそこまで完璧なものは不可能だ」
マトリフがそういったとき、洞窟の中の空気が動く。
一瞬にして臨戦態勢になったダイとは対照的に、マトリフはますます上機嫌になっていた。
「ま、そういう調べモノが得意なヤツが、向こうから来てくれたみたいだぜ」
「え……?」
余裕綽々なマトリフの態度にダイが毒気をぬかれていると、静かに研究室の扉が開かれる。そこには、まだまだ若さを感じさせる男が立っていた。
「いよう、久しぶりだな、アバン」
ひらひらと手をふるマトリフに、アバンは苦笑していた。
「相変わらず元気そうで何よりですね、マトリフ」
「……先生…」
「ダイくんも、久しぶりです」
久方ぶりの師弟の再会だった。だが、二人とも感傷にひたるでなく、微妙な間合いをとっている。どこか、張りつめた空気があった。そんな二人を余所に、マトリフはすっかり緊張を解いているように見える。彼独特の、ポーズなのかもしれないが。
「で、何しに来やがった?」
マトリフの問いに、アバンは答える。
「捜索願がでている彼を、迎えにきました」
彼、が誰を指すのか。ダイは理解していた。
表情を消したダイの前に、ふらりとマトリフが割ってはいる。アバンの前にいって、ダイを庇うかのように。
「まてまてまて。ちっと、俺と相談しようぜ、アバン。大人の話ってヤツだ」
そうまで言われると、アバンも断ることができない。それを見越していたのだろう。マトリフは、ダイを振り返ると釘をさす。
「お前も速まるんじゃねーぞ。どうせ逃げても、アバンの合流呪文でとっつかまるんだからな」
軽い口調とは裏腹に、視線は冷徹なまでに冷たかった。


ダイは、再び彼の部屋へと戻っていた。
この部屋は、ポップが居候していた部屋だった。内装は、ポップがいなくなったときから寸分変わってはいない。時が流れたのは、成長した二人の上にだけだった。
ぎし、と寝台に腰掛けると盛り上がった毛布にそっと語りかける。
「…寝てるの?」
「………」
返事はなかったけれど、目覚めている気配があった。
ダイは、毛布からわずかにみえる黒髪をみつめながら、ゆっくりと言葉を紡いでいた。ただ、あふれるほどの思いを込めて。
「俺は…ずっとお前を捜してた。やっと見つけたんだ」
「…………」
毛布の塊は動かない。けれど、ダイは断言していた。
「俺は知ってる。お前は──ポップだ」
「違うっ!」
間髪いれずに毛布から、ばね仕掛けの人形の用に人影が起きあがる。
感情のままに叫ぶ青年を、ダイは決して間違えない。
たとえ、彼自身が間違えているのだとしても。
「俺は、そんな名前じゃない!お前なんて知らない!俺は、俺は──!」
否定の声音ごと、胸の内に抱きしめていた。じたばたと暴れる気配すらも、ダイにとっては至福に感じられた。
「ちくしょう、離せ、ヘンタイ野郎っ!」
「嫌だ。俺は、二度とお前を放さない」
自分よりもずっと細い身体を、抱き込んだまま寝台に倒れ込む。
「や、やめっ…っ…!」
不安な展開に、悲鳴のような声があがっても。
ダイは、腕をゆるめなかった。