緑の猫

魔界にそびえ立つバーンパレス。そこには、緑の猫が住む。
猫…といっても、四つ足でもなければ毛皮も尻尾も持ってはいない。二本足で歩いているし、外見は人間の少年だ。魔界において、人間であるということは既に異端だったが。それでも居ないことはない。少年は緑系の服を好んでまとっていた。行動は誰にも束縛されない。いや、できない。少年の飼い主が、大魔王バーンであることは周知の事実だった。少年はバーンの所有物だった。首にはめられた精緻な作りの枷が証拠だった。
きまぐれにバーンパレスをいきかう少年を、誰ともなく「猫」だと呼んだ。少年の名を知らなかったから。バーン本人や、腹心であるミストバーン、キルバーンは知っているのかもしれないが、口にはしなかった。
そうして今日もバーンパレスの回廊を、緑の猫は歩む。大魔王の愛玩物だとそしられながら。

緑の猫は、大魔王に寵愛されている。だからといって貞操を守る義務もないらしく、キルバーンもまた、緑の猫を気に入って、関係をもっている。緑の猫本人は、不死騎団長のヒュンケルや超竜軍団の副官の一人であるラーハルトが気に入っていて、よく寝所に潜り込んでいるらしい。大魔王は、何もいわない。緑の猫が最終的に帰ってくるのは、自分の処だけだと知っているかのように。

「…あまりラーハルトにつきまとうな」
回廊ですれちがったとき、バランは緑の猫に告げた。腹心の部下が、目の前の少年と関係をもっていることは知っていた。これが恋愛関係にあるならば、バランとて口を挟むことはない。だがラーハルトはともかく、緑の猫の方にそんな気は欠片もないのは確かだった。そうでなければ、キルバーンやヒュンケルとも関係したりはすまい。不特定多数との不適切な関係は、バランの好むところではないのだ。
「やだね。俺、あいつ気に入ってるもん」
超竜軍団長を目の前にしても、少年は飄々としていた。べ、と軽く舌をだして見せたりする。
「──別に、ラーハルトでなくともよかろう」
「ヒュンケルだけじゃ、飽きちまう。それとも何?バランが替わりになってくれるのか?」
どこか無邪気な表情で、とんでもないことを口にする少年。一瞬、応えに詰まったバランの前で、少年は肩をすくめた。
「なーんてね。冗談だよ。ヒゲのおじさんは苦手なんだ。そんなに俺が気に入らないなら、ラーハルトに直接言えよ。主君第一なあいつなら、俺ときっぱり別れるだろーぜ」
そういうとヒラヒラと手をふって、少年は歩みさっていった。気ままな足取りを見送りながら、バランは微かに溜息をもらす。確かにバランが命じれば、ラーハルトは猫に近づかないだろう。どれほど猫に心を惹かれていても。ラーハルトの真摯な想いが解るがために、バランは命令することができなかった。
「バランくん、猫ちゃんにフラれちゃったネ」
「猫ちゃん、メンクイだからしかたないよ〜」
何も無い空間からの揶揄に、バランは冷たい視線をなげた。そこには、キルバーンとピロロがニヤニヤと笑いながらたっている。
「でも猫ちゃんは、押しに弱いから。もう一押しすれば、寝てくれるヨ」
「上司に寝取られたら、ラーハルト、ショックだろうね〜」
くすくすとわらう二人に、無言で殺気をなげると、キルバーンとピロロはすうっと空間に消えていく。
「怖い怖い。竜の騎士さまの怒りにふれちゃいそーだ」
「あぶない、あぶない」
笑い声を残して、死神は去っていく。それを冷たい目で見ながら、バランは再び溜息を零していた。
バラン自身は、猫と呼ばれる少年が嫌いではなかった。おどける事はあっても、卑屈になることはなく、ただ風のように気ままな姿には、惹き付けられる何かがあった。まだ若いヒュンケルやラーハルトが、少年の誘いを拒みきれないのも解らなくもない。バラン自身には、そういった趣味はないのだが。
実際、猫と呼ばれる少年を嫌う者は少なかった。総司令であるハドラーや、百獣軍団長のクロコダインは、少年と軽妙な会話を交わしているし、ハドラー親衛隊も少年と仲がいい。不死騎団長のヒュンケルは言わずもがなで、幻影魔団長ミストバーンは少年の存在を認めている。言葉こそないが、決して無視はしない。少年をあからさまに嫌っているのは、妖魔士団長ザボエラと氷炎魔団長フレイザードだけだった。二人が少年を嫌う理由も、バランにはわかっている。二人とも、バーンに寵愛されている少年を嫉んでいるのだ。なぜ無力な人間如きを、と二人は口にする。確かに、どうしてバーンが少年を寵愛するのか理由はわからない。少年を人間界から連れてきたのはバーン本人だが、理由は明らかにされなかった。ただ、少年がバーンパレスに来た時期と、バーンが人間界侵略を延期した時期は同じだった。おそらく、何らかの関係があるのだろう。そう思いながらも、バランは理由を知りたいとは思わなかった。知らない方がいい、と心の内の何かが警告していた。

魔軍総司令であるハドラーのもとに、六団長が揃うのはめずらしい。大抵は誰かが遠征中なのだが、今回は全員が顔を揃えていた。
「順調すぎて、報告することはないね」
高らかに笑うフレイザードを、ハドラーは奇妙な目で見つめていた。それはクロコダインやバラン、ヒュンケルも同じだった。彼らがみつめていたのは、フレイザードが腰につるしている一振りの剣だった。
鞘はなく、刀身をそのままにさらした剣。柄にはめ込まれた宝珠は輝き、刀身もまた見事なオリハルコンの輝きをはなっている。一目で名剣としれる剣だった。
「フレイザード…その剣は何だ?」
ハドラーの問いに、フレイザードは自慢げに答える。
「良い剣でしょう。拾いものにしては、上等だ」
「それほどの剣を、何処で手に入れたんじゃ?」
ザボエラの羨ましそうな視線に、フレイザードはますます胸をはった。口にこそしないが、ヒュンケルやクロコダイン、バランもまた視線に羨望が宿るのを押さえきれない。フレイザードの腰にある剣は、武人ならば垂涎ものの名剣だった。
それを理解したフレイザードが得意の絶頂になったとき。扉の向こうから、かすかに言い争う声がした。
「そこを開けろ、ヒム、ラーハルト」
「中は会議中だ」
「んなもん、とっくに終わってる。俺は、この中に用があるんだ!」
「おいおい、どーしたんだ?お前らしくねーぞ」
「いいから、あけろっ!」
扉の外を守っていたヒムとラーハルトと猫と呼ばれる少年の声だった。いつもはあっさりとしている少年が、珍しく我を通している。ハドラーも疑問に思ったのだろう。内側を守るシグマとフェンブレンに手で、開けてやれと命じていた。頷いた二人が、扉をあける。驚いているラーハルトとヒムの手を振り払い、緑の猫と呼ばれる少年は部屋に踏み込んでいた。
「なんじゃ、お前は!お前如きが、この部屋に入って良いとおもっておるのか!」
ザボエラが泡を飛ばしながら叫んでも、少年は一顧だにしない。ただ一点のみを睨み付けていた。
「俺の剣を返せ」
声は、まっすぐにフレイザードに向かっていた。
居合わせた軍団長たちは、おどろいて少年をみつめた。剣の所有を少年が主張したこともあったが、少年の姿をみて更に驚きがます。
猫のように気まぐれな姿は、どこにもなかった。
そこに立つのは、静かな怒りをまとった底知れない……存在だった。歴戦の強者だけが、感知できる。稟と立つ少年の姿をした存在が、途方もなく危険なのだと。
「これがお前の剣だって?どこに証拠があるんだ?」
ニヤニヤと笑いながらフレイザードがつげても、少年は落ち着いていた。
「人の部屋を焼きはらっといて、よくいいやがる。火事場泥棒ってのは、お前のことだろ」
「お前の部屋〜?はは、すまねーな。俺は物置かとおもったぜ。あんな隅っこでちっせー部屋だったからな!バーン様におねだりして、もっと良い部屋を貰えよ。ペットらしくな」
「それで、返す気はあるのか、ないのか。さっさと答えろ」
「……この剣は、もう俺のモンだ。大体、お前はペットのくせに目障りなんだよっ!」
そういうと、フレイザードは手をかざした。周りにいた誰よりも素早い行動だった。
「くらいなっ!五指爆炎弾っ!」
五発のメラゾーマが少年を襲う。居合わせた誰もが、虚を突かれていた。いくらフレイザードが短慮とはいえ、バーンの庇護下にある少年を正面から攻撃するとは思わなかったのだ。誰もが、少年は燃え尽きたと思った。だが、炎は少年に届かない。光の結界が、炎を阻んでいた。
「…防御光幕呪文だと…!て、てめーはいったい…!」
「これで防げるなんざ、ちょろい炎だな。カイザーフェニックスの足もとにも及ばねーぜ」
何でもないことのように、さらりと少年はつぶやく。衝撃をうけている一同を軽く見渡すと、誰もいない空間に視線をとめた。
「…どーせ処刑するなら、俺によこせ」
「はは、魔法使いクンは、相変わらずワガママだネ」
「そうそう、ワガママ〜」
空間のゆらぎから、ひょいと死神が顔をだす。肩をすくめながら、おどけた風情でもって。
「ま、キミを攻撃した時点でフレイザードくんはダメダメなんだけど。でもチャンスもあげなくっちゃ、フェアじゃないだろ?キミが死んじゃったら、バーンさまも諦めるだろーね」
「あんな三流軍団長に、俺が殺せるわけがねーだろ」
「だ、誰が三流だと!てめーぶっ殺してやるっ!」
あざけりの言葉に、フレイザードは激昂していた。怒りのままに、剣を振りかぶろうとしたが出来なかった。柄を握っていた氷の右手は、飛来した光に切断され握った剣ごと床に転がっていた。
「ち、ちくしょう…一体、何しやがった…!」
「ただの魔法さ。これも見切れないじゃ、どーしよーもねーな」
怒り狂うフレイザードには解らなかったが、周囲にいた者には解った。少年が発した光は、下級の閃熱呪文だった。一点に収束されて放たれたがために、光の刃に似た攻撃となったのだ。凄まじい呪文の威力と制御力だった。
「フレイザード。お前が消えるのは、俺に手を挙げたからじゃない。俺の剣に触れたからだ」
静かに告げる少年の右手に火炎、左手に冷気が宿る。同時に二つの呪文を操るだけでも驚嘆すべきものだが、それ以上に次に繰り出される呪文の想像がつかない。少年の操る呪文は、居合わせた者のほとんどが、初めて目にするものだった。
「て、てめーは一体……!」
「悪いな。冥土のみやげを持たせてやれなくて。あばよ、三流軍団長!」
少年の両手に生みだされた光の矢。それは真っ直ぐに放たれて、フレイザードを襲う。断末魔の声さえも跡形もなく消し去った。フレイザードの背後の壁もろともに。ぽっかりと開いた穴からは、魔界の空が見えていた。
あまりの威力に言葉をなくした一同の中を、すたすたと少年は歩いた。つけていたマントを外すと、床に転がっていた剣を大切そうにくるみ、抱え上げて胸にいだく。まるで恋人のように、愛しげな視線を剣に注いでいた。次に顔をあげたときは、いつもの飄々とした表情を浮かべていた。
全員の視線をあびながらも、何事もなかったかのようにハドラーに声をかける。
「部屋に穴あけて、悪かった。迷惑かけるつもりはなかったんだけど……」
反省したように肩を落とす姿は、先ほどまで魔法を使っていた姿とは違いすぎていた。ハドラーが何を言おうとかと迷っているすきに、死神が口をだしていた。
「別にいーんじゃないの?ボクも処刑の手間がはぶけて、大助かりだし。バーン様も何もいわないさ。魔法使いクンはバーンさまのお気に入りだからネ。たとえ魔法使いクンの心が剣のモノだとしても、バーンさまのお心は広いからダイジョーブさ」
「安心、安心〜」
キルバーンとピロロの言葉に、少年は不機嫌な顔になる。そのまま、何もいわずくるりと背をむけると部屋から去っていった。誰も、呼び止める言葉をもたなかった。残された者たちは、物問いたげな視線を死神になげる。少なくとも、バーン以外で少年について知っていそうなのは、死神だった。その証拠に、死神は「魔法使いクン」と少年を呼んでいたのだから。
「おやおや、皆さんの視線が痛いね〜ピロロ?」
「痛いよ〜ドキドキしちゃうよ!」
「キルバーン…あれは、何者だ?」
その場の全員の疑問を代弁するように、ハドラーは口にしていた。キルバーンはしばらく考える素振りをして、ひょいっと肩をすくめる。
「知らないっていってもムダみたいだから、少しだけ教えてあげるヨ。彼は最強の呪文使いなのさ。回復系、攻撃系、補助系、はては破邪系呪文も使える。人間界で、彼は大魔道士と呼ばれていたよ」
「だ、大魔道士じゃと…!」
ザボエラが驚きの声をもらすが、キルバーンは尚も続けた。
「でも彼自身は、自分を魔法使いだと思ってる。ただ一人…勇者の魔法使いだって、ね」
勇者。その言葉の響きに、魔王軍は沈黙する。勇者と大魔王は、相容れぬ存在。不倶戴天の敵同士なのだから。
「ちょっと前、ボクとミストとバーンさまは、人間界の下見にいったんだよ。そしたら勇者クンと魔法使いクンに邪魔されちゃってサ。もう二人とも非常識でネ。魔法使いクンはバーンさまのカイザーフェニックスを素手で引き裂くし、勇者クンはバーンさまの腕を切り落とすし。さすがのバーンさまも、ちょっぴり危なかったんだよ」
軽い声音で綴られる言葉は、信じられない内容だった。しかし同席しているミストバーンも否定しない。
「でも結果は、ごらんの通り。魔法使いクンも、今はバーンさまの手の中から逃れられない」
キルバーンは冷たい嘲笑を瞳に浮かべて、続けた。
「…勇者クンの命は、バーンさまのお心しだいだからネ」
だから少年は、バーンに屈している。慰み者にされ、嘲られても離れることができない。自分自身に課した、使命ゆえに。
「猫ってゆーより、見事な忠犬だよネ。勇者クンが死んじゃえば、魔法使いクンも自由になれたろうに」
「可哀想だね〜。でも、そのおかげでキルのお楽しみもあるでしょ?」
「ははは、ピロロ。それは大人の秘密だヨ」
けらけらと笑いながら、キルバーンは空間に消えていった。言葉のない一同を置き去りにしたまま。

それからしばらくの間、バーンパレスで少年を見ることはなかった。ラーハルトの処にもヒュンケルの処にも現れなかった。司令室の壁が修復され、フレイザードの氷炎魔団が解体され、軍団長の二人ほどが遠征にでかけた頃。バランはテラスの片隅で、だるそうに座っている少年を見つけた。
「…何をしている?」
「みりゃ解るだろ。疲れてんの。死神のヤローがねちねちとしつこくってよ」
おおげさな溜息をついてみせる少年は、わずかに痩せたようにも見えた。荒淫の痕は、襟にかくせない首筋にはっきりと残されている。バランは、思っていたことを口にしていた。
「ザボエラに気をつけろ。あれは嫉妬深い」
「…ついでに疑り深いってか。忠告ありがと。ハドラーとクロコダインも同じことを教えてくれたぜ」
ふわりと零れる笑みは、年相応のものに感じられる。すさまじい魔法力と、アンバランスな笑顔だった。
「ラーハルトやヒュンケルは、何もいわないのか」
「あれから、会ってないからな。死神のせいで、会いにいく体力もないし」
際どい言葉だが、少年に他意はないのだろう。あっけらかんとした物言いだった。
「気が向いたら、会ってやれ。あいつらには有能でいて貰いたい」
「……前と、言ってることが逆じゃん。ま、いっけど。気が向いたらな」
ふわぁ、と欠伸する少年は、眠そうだった。これから一眠りするつもりだったのだろう。立ち去る前に、バランは一つだけ訊ねていた。
「あの剣は、素晴らしい剣だな。銘があるなら、教えてほしい」
答えはない。少年は眠ったふりをしていた。もともと返事は期待していなかったから、バランはそのまま歩き去る。だが背中に、声がかけられた。小さな声だったが、バランには十分だった。
「──ダイの剣、だ」
立ち止まることも、振り向くことなくバランは去っていく。
ダイという勇者は、どんな者だったのだろうという疑問を呑み込みながら。

テラスに残された少年は、目を閉じていた。
目を閉じれば、小さな親友の笑顔が思い出される。最後まで付き合うと約束した。だから、今はここにいるのだ。
いつか──勇者の還ってくる日のために。
「還ってきて…俺の名を呼んでくれ、ダイ」
小さな呟きは、風の中に消えた。

その日まで、緑の猫はバーンパレスに住んでいる。