Shouldn't have to be like that

呪文以外、鴉の軍師は口にしなかった。動作らしい動作もなかった。顔はもちろん仮面の下、体格も、ふわふわとした羽毛のマントに覆い隠されて判然としない。唯一確かなのは、性別が男であることだけ。
正体を暴きたかった。だが、鴉の軍師を守るのはガー公と呼ばれた黒犬…黒犬は有能な守護獣だった。直接対峙すればダイの敵ではないだろう。だが、遠距離攻撃の全ては無効化された。闘気剣すらも。竜闘気はどうだかわからなかったが、もし使えば背後にいる軍師もただではすむまい。試してみようとは、思わなかった。
近づくことは叶わなかった。地将軍ジョカが立ちふさがったために。近接戦闘で、自分が苦戦するとは思わなかった。ダイはジョカの正体を知っていた。真祖と呼ばれる吸血鬼…しかし、あれほどに強敵だとは思ってもいなかった。そして感情的になったダイは、ジョカの敵ではなかったのだ。
鴉の軍師と黒犬、地将軍は、ダイの鼻先からまんまと逃げおおせた。
もとより軍師が前線にでてくることは、ほとんどない。
ならば、何のためにダイの目の前に現れたのか。声を聞かせて、自分を惑乱させるためなのか。一番妥当な見方だったが、ダイは罠でも策略でも何でもいいと思った。
もう一度、あの声が聞きたかった。
あの声に、名を呼ばれたかった。

再び戦いの日々に身を投じながら、ダイは鴉の軍師の情報を集めれるだけ、集めた。
鴉の軍師が現れたのは、バーンが死んで二年後だった。その時から、黒犬を連れていた。軍師は、まだ幼い長を補佐し、妖霊たちを指揮して軍の形を整えて、襲い来るヴェルザー軍に反抗したのだ。卓越した統率力と求心力で、根の国は強くなっていった。以前からいた水将軍、火将軍に加え、風将軍と地将軍が加わり、四大将軍を揃えた根の国の軍勢は、常勝ではなかったが、不敗となっていた。妖霊たちは軍師のことを、女神の使者と呼ぶという。確かに、軍師の登場と、女神の封印が弱くなった時期は一致していた。無関係であるとは、思えなかった。鴉の軍師が強大な魔法使いであることも確かだった。ダイが目覚める前…竜騎衆が現れる以前は、よく前線にたち極大呪文を行使していたのだ。当時のことを重点的に調べたとき、ダイは半ば狂った一人の捕虜の証言を聞いた。
ヴェルザー軍の一員だった彼は、根の国の軍勢とも戦ったという。そしてある戦いで、生き延びたのは彼一人だったらしい。彼が属していた軍団は、鴉の軍師が放った光の矢で消滅したというのだ。信じがたい話で、捕虜が正気を手放していたため作り話ではないかと疑われていた情報だった。確かに、魔界でそんな呪文を使えるものは存在しない。けれど、ダイは。極大消滅呪文が存在していることを、知っていた。

ダイが疑いを抱いている間も、竜騎衆は戦果をあげていた。ラーハルトもクロコダインも、ダイのために戦った。
気がつけば、目覚めてから五年がすぎていた。眠っていた間を加算すれば、ダイは18になっていた。
魔界の勢力地図は、徐々にだが決し始めていた。竜騎衆の勢力は、ヴェルザー軍を圧倒し始めていた。根の国は基本的に自分たちの領土と定めた場所からでることはない。実質的に、魔界の支配権の争いはダイとヴェルザーになっていたのだ。
ヴェルザーたちを封じ込めれば、根の国は同盟を持ちかけてくるのだろうか。
その話し合いに現れるのは…現在は宰相も兼ねていると聞く、鴉の軍師なのだろうか。
確かめたかった。
自分がどうすればいいのかわからないままに、ダイは真実が知りたかった。

そして、ダイが恐れつつも待ち望んでいた使者が現れる。
風将軍イシュタムと名乗った女は───絶世の美女だった。
傾国、という言葉も彼女を見てしまったら信じてしまいそうだった。確かに、言葉を失う美貌というのは存在するのだ。ゆるやかに波打つ蜂蜜色の髪と、潤んだように大きな碧い瞳。真珠色の肌と、咲き初めの薔薇の唇。たとえ瞳のなかに危険な叡智の光が輝き、喉の奥に鋭い舌鋒をしまっていたとしても。…それを味わったことのない竜騎衆の軍勢は、ただただ静まりかえり、己の眼福に感じいるばかりだった。
「初めまして、竜の騎士殿。わたくしは、風将軍イシュタムと申します。本日は、我が主、根の国の巫女の使者として参りました…」
イシュタムは、優雅な動作で予測されていた口上をダイに伝えた。ダイは即答を避けるつもりだった。だが彼女の最後の言葉が、そうさせてくれなかった。
「そうそう、わたくしの軍師から騎士殿に伝言をあずかっておりました。お伝えしますね」
華やかな笑顔で告げた彼女を、止めることはラーハルトにもクロコダインにもできなかった。後から、どれほど後悔したとしても。
「───お前の剣を取りに来い、と」
残酷な美しい笑みを浮かべて、イシュタムはダイを見つめていた。
瞳には隠す気などさらさらない、激しい怒りを渦巻かせながら。