prologue

「鞘をくれ」
そう口にしたのは、飲み友達の息子だった。
久しぶりにあった少年は、迷いのない瞳をしていた。彼が抱えた、重そうな布包みを見たときから、答えはわかっていたような気がする。
「…何の鞘だ」
ゆらゆらとゆれる暖炉の光は、目の前の少年に不可思議な陰影をつけていた。
「この剣の鞘だ」
するりと布が落とされた後に現れたのは、自分の最高傑作だった。ただ一人の勇者の為に打たれた剣は、命の証として赤い宝玉をきらめかせていた。
「───よくそいつが納得したな。鞘の代わりに、俺にも理由を聞かせろ」
勇者の剣は、魔法使いの手には不釣り合いだった。重そうに柄を支える細い腕をみながらしみじみ思う。彼の力を考えると、剣帯は背中に背負う形のものしかあるまい。
勇者が姿を消して、もうじき二年になる。その間、少年は世界中を探し続けていると聞いた。家に顔もだしやがらねぇ、と飲み友達がぼやく声は、何処か寂しそうな響きがあった。
しばらく沈黙していた少年が、ゆっくりと口を開く。
「地上は──全部探査した。精霊界も魔界にも、あいつの気配はない。天界にいるとしたら、あいつは何をしてるんだ?」
確信に満ちた声に、疑問は挟めなかった。代わりに問われたことについて考える。天界に勇者がいるとしたら…何の為なのか。
「あいつは、最後の竜の騎士だ。しかも歴史上、最強の存在だ。聖母竜も消えた今、もう二度と竜の騎士は生まれない。俺が天界だったら、あいつを取っておくね。次に何かが起きたときのために」
それは自分も考えたことだった。天の理に、感情の入る余地はない。神々とは、残酷な存在なのだ。
「でも、俺はあいつに逢いたい」
祈るような声に、瞳がゆれる。一瞬、泣いているように見えた。涙は、欠片も存在しなかったけれど。
「そのためなら、どんな代償を支払ってもいい」
昔、誰かが言った言葉を思い出した。
──真実に願い、その代償を惜しまぬならば。
──叶わぬ願いなど、この世にありはしない。
「俺は、あいつに逢ってみせる。こいつも、俺と同じだ」
平和な世界に、武器は必要とされない。それはつまり、かの剣が主に会える可能性が限りなく低いということになる。どれほど剣が、主を慕っていたとしても。
「…嵐を起こす気か」
呟いた声は、問いではなく確認だった。
「竜の騎士は、三界の調停者。三界が乱れれば、目覚める。天の理だろう?」
ゆらゆらと揺らめく影の中に立つ少年。背筋が寒くなる言葉を平然と口にしていた。だが彼が地上を愛していることは、誰よりもわかっていた。勇者が守った地上を、彼が壊せるはずもないのだ。だとすれば。
「魔界を乱すか」
「あんたの故郷だけどな」
悪びれることなく、少年は答えていた。
「俺は、嵐を起こす。あいつが、のうのうと寝ていられないような派手なヤツをぶちかます。誰に憎まれても恨まれても、俺はそうすると決めたんだ」
迷いのない言葉に、笑いがこみ上げてきた。そのまま口元に笑みを浮かべると、少年は驚いた表情をみせる。まさか自分が笑うとは思わなかったのだろう。だが、これが笑わずにいられるだろうか。
「賭けだな。遥かなる賭けだ……だが、分の悪い賭は嫌いじゃない」
人間が魔界におりて、どれほどの事ができるのか。天の理さえも欺くことができるのか。結果を見てみたいと、強く思った。
「お前の後ろの戸棚の、左の扉だ。そいつの昔の鞘の予備が入っている。剣帯もな。もっていけ」
「感謝するよ」
自分の言葉に従って、少年は鞘をとりだし抜き身の剣を納める。背中に剣を背負って、小屋をでていくために扉をあけた。外は、雨だった。途切れる事のない雨脚の中に、迷うことなく踏み出していく。ふと立ち止まり雨に耐える姿は、撃たれた鳥のように優雅だった。
「…俺が賭けに勝ったら、今夜の事は忘れてくれ」
「ああ。そうさせて貰うさ」
別れの会話は、短かった。
雨に煙った森の中に、少年は消えた。
そして、地上からも姿を消した。


あれから一年が過ぎた。
今夜の酒は、格別に美味だった。
先ほど自分の小屋を訪れて、剣の行方を尋ねたのは。
三年分成長していたが、紛れもなくダイだった。
あいつは、賭けに勝ったのだ。
自分の向かい側にグラスをおいて、祝杯を開ける。
勝利の酒ほど、美味いものはない。
「やったな…ポップ」
竜の騎士は、魔界へと向かう。
親友達が再会するのは、間違いないだろう。
…それが、どれほどの代償をともなうものなのか。
ロン・ベルクには想像もできなかったが。