ここへは戻れない

もう一度、約束する。
決して、君のことを裏切らない。

長いこと旅暮らしをしてると、自然と路銀の稼ぎ方がわかってくる。
今の収入源は、薬草だった。山中に分け入らないと手に入らないモノは、高値で売れる。どうせ通り道なのだから、こちらとしては特別な手間をかけてない。昨晩から止まっている宿屋の主は、自分のことを流れの薬師だと思ったらしい。腰痛に効く薬を求められたから、手持ちの薬を処方しておいた。もっとも宿屋に最初に現れたときは、流れの楽師だと思われた。小型のリュートを背負っていたためだ。食堂での演奏を頼まれたから慌てて、リュートは旅の手慰みだと告げた。ついでに薬草の卸先を訊ねたのだった。
だが結局、演奏を断り切れなかった。夕食時に、主人や何故か集まっていた村人に頼まれて踊りの伴奏を受け持つことになった。簡単なノリのよい節の繰り返しだから技術はいらない。村人も自分も、飲んで笑って踊って、大騒ぎの夜だった。一際楽しんでいた主人は、食事代はロハで宿代を半額にしてくれた。
だいぶ飲み過ぎたのを自覚したから、部屋に引き上げる。灯りのない部屋は暗い。窓の外には月明かりがあるが、閉じられたカーテンで微かな光は遮られていた。
ドアを閉じたとき、カーテンが揺れた。窓が、開いていた。
出かけるとき、確かに締まっているのを確認したはずなのに。
酔いのまわった頭には、警戒よりも疑問が浮かぶばかりだった。
どこかおぼつかない足取りでもって、ゆらゆらと揺れるカーテンに触れた。
そのとき部屋の隅の暗がりで、他者の気配が揺れた。
とっさにカーテンを引き空けて、月光を部屋に呼び込んでいた。
淡い月のひかりに、室内が照らし出される。片隅には、背の高い男が立っていた。視認した今も、気配はほとんどしない。自分が気付けたのは、男が自ら気配を断つのを止めたためなのだろう。男の上半身は、未だに影にあった。
酔いは、一気に醒めていた。どんな自体にも対処できるように全身に気をめぐらせる。自分を害するつもりはないのだろうが…油断はできなかった。
きしり、と床をきしませて男が歩を進めた。影に隠れていた上半身と頭部が、月明かりにさらされる。
夢をみているのかと思った。
男は、簡素な服を纏っていた。むき出しの腕には、綺麗な筋肉があった。さほど手入れをされてない髪は、あっちこっちに跳ねていた。顔は、初めて見る顔だった。精悍な、どちらかといえば男臭い面立ち。片頬には、薄れた十時傷があった。懐かしい面影を宿す男を、呆然と見つめることしかできない。
「…楽器が弾けるなんて、知らなかったよ」
低くなった声は、体格にふさわしい。自分より背が低かった頃の柔らかく高い声の片鱗は、かけらもなかった。答える自分の声の方が、昔の彼に似ているような気がした。
「俺は、秘密の多い男なんだよ」
こんな憎まれ口を、ききたい訳じゃないのに。身体にしみついた条件反射ばかりは、拭いようがない。
「最も、お前が還ってきてるなんて…すげー秘密は、今まで知らなかったけどな」
言葉をきって、呼吸を整えた。
大切な名前を、唇に乗せるために。
「──ダイ」

手を伸ばしたのは、どちらが先だったのだろう。
気がつけば指先が触れ、腕をとられ、互いを抱きしめていた。
彼の体格は、昔とさほど変わってないように思えた。こんなに華奢だったなんて、知らなかった。背に回っている自分の腕をみつめて、わずかに微笑む。成長してよかったと、心から思った。
戻るつもりはなかった。
けれど、諦めることもできなかった。
腕の中の、愛しい人を。
「ポップ…」
大切な名前を、唇に乗せた。
彼はただただ、ぎゅっと自分を抱きしめてくれる。それだけで、こんなにも自分が幸せになれるだなんて知らなかった。
今はただ、目の前の彼を抱きしめていたい。
明日には、後悔の涙を流すのかもしれない。
それでも二人ならば。
哀しみを越えてゆけると、信じることができた。
もう二度と、ここへは戻れないとしても。