椰子の実

目の前の樹は傾きながら生長していた。背の高い樹で、幹に枝はなく樹冠に羽状複葉を放射状に茂らせていた。
湖のほとりで見た風景は、どこか奇妙でいて懐かしい。陽子はただ、呆然と樹を──椰子を見上げていた。
「そんなにこれが珍しいか?」
傍らに立つ楽俊が、不思議そうに見下ろしてくる。いつもなら陽子を見上げることが多いのだけれど、今は人型のためだった。隣に並ぶと、彼が意外にもしっかりとした体格なのがよくわかる。やや痩せぎすだが、男物の袍を羽織っても少年にしか見えない陽子とは比較にならない、紛れもなく成人男性のものだった。
「珍しいというか…こちらにもあるとは、思ってなかったんだ。向こうでも暑い地方に生える樹だったんだけど」
「こちらでも、暑いとこでしか生えない樹だ。きっと同じ樹なんだな…種がどちらかから流れ着いたのかもしれねえ」
蝕でもって、いろいろな物が行き交うのと同じに。
楽俊の言葉を聞いたとき、陽子は古い唄を思い出していた。思わず口ずさむ。耳にした楽俊は、少しだけ目を見開き、穏やかな表情をうかべて耳を傾けていた。

二人が立っているのは、漣の地だった。漣には現在、景王が公式訪問中だった。珍しい南国の地を見物するチャンスを、陽子が見逃すはずもない。なにぶんにも大らかな廉王と、親交のある廉麟の好意でもって、雨潦宮を抜けだしお忍びで首都重嶺を見ている最中なのだ。
側にいるのは楽俊一人だが、離れたところには禁軍の精鋭兵士と左将軍自らが警護している。陽子は不服そうだったが、そうでなければ一緒にはいかない、と頑として楽俊が主張したためだった。
開放的な重嶺を歩き郊外にさしかかったとき、この樹の生い茂る湖を見つけたのだ。

蓬莱の唄を、楽俊は聞いていた。
倭の言葉で唄われる唄は完全に理解はできないが、仙としての能力が漠然とした意味を伝えてくれる。もの悲しい郷愁をさそう唄だった。唄い終えた陽子は、少しだけ恥ずかしそうな顔をした。
「…すごく昔の唄なんだ。覚えてるなんて、自分でもびっくりだな」
「良い唄だな。綺麗な唄だ」
楽俊が誉めたのは陽子の声だったが、陽子は意味をあっさりと取り違えていた。
「たしか、歌詞を書いた人は倭では有名な詩人だったと思う…こちらでも、この樹は椰子と呼ばれてるのかな」
「うん。これは椰子の樹だ。実ってるのが椰子の実。あっちの屋台で、実を売ってるな。内側の果汁と果肉が美味しいそうだ」
それを聞くと、陽子の表情が輝く。
「ほんと?!実は、私は果汁を飲んだことがないんだ。ココナッツ…じゃなくて、えっと、果肉を糸状に裂いて乾燥させた物なら、食べたことがあるんだけど。そっちは結構、好物だったんだ!」
期待に目をきらきらと輝かせて自分を見上げてくる陽子を、楽俊は楽しげに見つめていた。
子供のように陽子は楽俊の手を引いて、早く早くとせき立てる。
その後ろ姿をみて、ふと思う。
陽子は、唄われた椰子の実に自分を重ねたのだろうか。
異郷に流れ着いたのだと、思っているのだろうか。
確かめたいと思うのと同じくらい、確かめたくはないと思った。
故郷を想い涙していた、遠い日の彼女の姿を覚えているから。
楽俊もやはり、椰子の実と陽子を重ねた。
蓬莱という異郷に流れた、卵果を思った。
いつか伝えたいと願う。
唄の最後のように、故国に帰ってきたんだと。

───陽子が、とうに承知しているのだとしても。



※さて、このSSで楽俊は何をしているのでしょーか?いろいろ考えたんですが、どうも思いつきませんでした。どうか読まれた方の脳内で補完して下さいませ。意味不明なSSで失礼いたしました。けれど書いた方は、楽陽南国デート気分だったのです。はは。