すみれの花咲く頃

季節の移り変わりは、いつもささやかなものから告げられる。
たとえば吹き寄せる風や木々の葉の色、そして足下に咲く花に。

金波宮の奥にある園林は主の気に入りだと、園丁たちは知っていた。主が、きちんと手の入れられた芸術的な園林よりも、野趣溢れる景観を好むということも知っていた。
そういう訳で、その場所は最低限の手入れしかされることなく、陽子のお気に入りの場所となっていた。
散策という名目で陽子は園林を探検する。危険な物が、あるはずもないが果樹に登って実をもいだり、花の枝の下にたたずんでみたり、ときおり茂みからひょっこりと現れる雀胡と遊んだりするのだ。
今日も、陽子は園林の中を歩いていた。懐に雀胡をかかえて、日当たりの良い場所を探していた。
「うーん…なかなか良い場所がないなぁ、雀胡」
「ちぃ」
「何だか歩いてると、眠気がさめちゃいそーだ」
「ちぃ」
可愛い泣き声で律儀に返事を返す妖魔を撫でながら、陽子は適当な場所を物色する。昼寝の場所を探しているのだ。草の上に直に寝ころんだりすると染みがつくので、女官たちには渋い顔をされるが、陽子は外での昼寝が好きだった。とくにこんな、風の穏やかな日差しの気持ちの良い日は。
ようやく満足できそうな樹の根元を見つけたのは、それからしばらく後だった。
ぽかぽかと日に照らされて、ぬくぬくとした雀胡を懐に抱え込んでいると、覚めたかに思った眠気が沸き起こってくる。それは抗いがたい誘惑で、目蓋は重くなり、視界はぼんやりと霞む。どこか虚ろになった視線の先に、紫色の小さな花々が群生しているのが見えた。
すみれの花だ…春だなぁ…そう思ったとき、陽子の思考は途切れていた。

誰かの歌う声がした。
恋の歌を、歌っていた。
──ふるうって、どういうこと?
──元気になるってことよ。
歌の歌詞の意味がわからなくて問いかければ、優しい回答をもらった。
楽しそうに歌っていた、懐かしい人を覚えている。
繰り返し耳にした、恋の歌も。

懐で、雀胡がごそごそと動いていた。
うつらうつらとした、心地よい眠りから引き戻されれば、傍らに人の気配があった。
「──そろそろ起きられた方が、よろしいかと存じます。日も陰りますので」声に顔をあげれば、そこには浩瀚が立っていた。手には書類があるということは、御璽が必要な書類のために陽子を探していたのだろう。
「………うん。そうする」
雀胡を抱いたまま、陽子は腰を上げた。浩瀚を見上げたとき、あの恋の歌を思い出していた。
「浩瀚、あそこに、すみれが咲いてるんだ」
「もう、そんな季節ですか」
「そんな季節なんだ」
小さく陽子が言えば、浩瀚は表情を柔らかくする。
「府庫にいると、季節の移り変わりに鈍くなってしまいますね」
「何だか、こういう季節を感じたときって、得したような損したような、妙な気分になるなぁ」
「少なくとも、私は得をいたしました」
「…なら、いっか」
陽子は頷くと、御璽押すために歩き始める。やや後方に、音もなく浩瀚も続いた。背後に怜悧な男の気配を感じたとき、陽子は思い出したことを口にしていた。
「覚えてるか?お前と初めて会ったのは──言っておくが即位のときじゃないからな──ちょうど、すみれの花が咲く頃だったんだ」
振り向いて笑顔をみせる若い主に、浩瀚は深い笑みを浮かべていた。
「はい。よく覚えております」
「すみれの花をみると、今も心が奮う気がするのは、きっとお前のせいだな!」
華やかに笑うと、陽子は駆けだしていた。
驚いたように足を止めた男を、置き去りにしたまま。

すみれの花咲く頃に出会った人を歌う、恋の歌。
胸の内で陽子は、懐かしい歌を高らかに歌い始めていた。



※陽子の母親はヅカファンだったということで。…自分はヅカファンじゃないんですが、あの歌は好きだったりします。