紅差し指

思えば、紅の好きな男だった。
確か贈り物を貰ったのは、後にも先にも一つだけ。男から贈られた、小さな貝の器のことは忘れたくても忘れられるものではない。
「……紅なら、間に合っているのだけれど」
「解っている」
ふい、と視線をそらせて答えた男は、どこか拗ねているように見えた。そこからかいま見える、ささやかな独占欲を心地よく、愛しく思った。男から贈られた紅を差すことは、男の色に染まることだったけれど、不快とは思わぬほど当時は男を好いていたのだ。
官吏同士だった自分たちは、それなりに楽しい時間をすごして別れた。男が別の女と関係をもち、紅を贈ったと聞いても腹は立たなかった。ただ、紅の好きな男だと思った。
あれから時は流れた。
波乱の時代を乗り越え、今は冢宰となり百官の長として執務をとる男を、瑛州の州官である女は興味深そうに見つめていた。あの男が、まさか…と首をひねりながら。ささやかな好奇心だったが、それを満足させるためには危険が伴った。それでも知りたいと望んだ女は、一計を案じた。一介の州官が、直接、冢宰と話せる機会などあるものではない。だが、その気になれば方法は無いわけではないのだ。女は中でも一番、馬鹿馬鹿しい方法をとることにした。
冢宰は、宰輔をたずねて広徳殿に足を踏みいれることがある。すれ違うのは州官には簡単だった。またすれ違いざま、小さな貝殻をこれみよがしに落とすことも容易い。
からら、と落ちた貝殻に目を止めた冢宰は足を止めた。そうして貝殻を拾い上げた女官吏に、目を止めていた。

「瑛州の州官になっていたのか」
人気のない静かな園林で、浩瀚は女官吏と言葉を交わしていた。女は昔と変わらぬ笑みで答える。
「追放から戻れば、国官の席はなかったの。瑛州の州官になれたのは幸いだったわ」
声にも態度にも、媚はなかった。昔から、さっぱりとした気持ちのよい性格だったと改めて思い出す。それだけに昔の関係を匂わせる馬鹿馬鹿しい方法で、自分と伝手をもちたがった相手の本音が、浩瀚には解らない。
視線に込められた問いに答えるように、女は言葉を綴った。
「私は、今の慶に戻れてよかったと思ってるの。主上は、官吏として働きがいのある方ですもの。冢宰も、有能なことだし…」
いつしか真摯な目が、浩瀚を見ていた。
女の手には、かつて紅の入っていた小さな貝殻があった。
「もう紅は贈ったの?」
何気ない問いに、浩瀚の背筋が冷える。これだから、女は侮れない。誰にも見破られはしないと思っていた鎧は、あっさりと看破されていた。
「あの方を、どんな色に染めるつもり?」
重ねて問われた声に私心はなく、ただ慶と、未だ年若い主上を女として案じる気配だけがあった。返事を間違えたならば、目の前の女は敵となるだろう。いざとなれば、冢宰を引きずり下ろす手間を厭わない相手だった。かつて肌をあわせた相手に、腹芸は無意味だと判断を下す。
浩瀚は、切なく苦い笑みを浮かべていた。
「──莫迦なことを」
今はただ秘めるしかない想いを、わずかに零していた。
「炎が、染まるはずもない」
脳裏に、ゆらゆらと深紅の炎が揺れる。
それは染める紅を必要としない、真実の赤だった。

思えば、紅の好きな男だった。
女は冢宰を、静かに見つめていた。
「貴方が好きな紅は、好みだったわ。今でも、貴方の趣味は悪くないのね」思い出話のように口にした女は、何事もなかったかのように踵をかえす。そして、ふと思いついたかのように口にした。最後の言葉は、男のためではなかった。
「─…炎にも、色はあるのよ」
艶やかな笑みを残して、女は去った。
焦がれた紅に、身を焦がす男をおいて。



※…あれ?こんなハズでは無かったんですが…陽子の出番がゼロでした。気分的には浩陽なんですが。ホントは女官吏と陽子に会話をさせたかったのです。「時には味方、時には敵、恋人だったこともありましたね」「捨てられたのか!?」「まさか!捨てました」…なんちゃって。これでいくと浩瀚がル○ンに…(笑)桓?が次元で柴望が五右衛門、遠甫が庭師でカールは班渠ですね!銭形は…景麒かな…?