遺   書
         柴崎昭七命
         旭川市出身・人間魚雷回天に搭乗、敵艦に爆粋
         昭和二十年二月二十一日戦死  十九歳


 母上様、末子昭七は今正に日頃の母上の御教訓を遂行せんものと、勇躍米英撃滅に向はんとしてゐます。私の攻撃は母上の加護により必ずや成功することゝ確信いたします。
 今迄の訓練にも随分と際どいこともあり、死地に陥ったこともありますが、不思議と危い所を扶けられてゐます。これもひとへに母上の固い御信仰が昭七をお護り下されし賜であると思ひ、その確信のもとに訓練を続けて参りました。私のお守の中に入れて下さいました母上の直筆は常に昭七と一緒でした。
 母上様、昭七が今迄末子としておいつくしみを受け、御苦労をおかけ致しましたのに反し、心ばかりはせかれましても、孝養の一つもなし得なかったのをはなはだ残念に存じます。しかし又母上が日頃御教訓くだされ如く、「純忠に死すは大考に生きる」ことゝ存じます。
 母上様、大義に生きんとする鎧兜の若武者が、恋しき故郷の母上に思ひを馳せることはいけないことでせうか。しかし私は一切の私情をなげうって征きます。母上の私が甲種飛行予科練習生として入隊するとき、御激励下さいました御心境、又土浦海軍航空隊を卒業の時、私の最後の詩吟をお聞かせした際「予科練習生を見る時は皆吾子と見ゆ」と言はれた時の御心の裡を察しますとき、何故独り昭七のみ郷愁に耽ることが出来ませうか。母上に負けざるよう。笑はれぬ様やります。
 今に及びましては万感交々胸に迫りまして何等言ふべき言葉も解りません。どうか御健康には充分御留意くださいまして天寿を全うされる様末子昭七心よりお祈り申上げます。

昭和二十年二月十九日

母上 様

                 末子 昭七

回天特別攻撃隊のフラッシュへ
戻る





遺  文  
        小紙彰正命
        小樽市出身・兄元博命にあてたもの
        真珠湾攻撃に参加後昭和十六年十二月二十二日
        ウエーキ島で戦死

兄さん、其の後元気の由、母や春道よりの手紙で喜んで居る、俺も相変らず元気、先月二十日大湊より軍艦蒼龍に転勤して来たんだが九州も十月ともなれば少し涼しくなって来た艦隊も連日連夜猛訓練をやって居る、毎日十時間以上の飛行訓練だ、暗夜に曙の空に、太陽の下に銀翼連ねて飛んで居る。
兄弟三人死ぬ時は小紙家の為に立派な戦死をしようぜ。男と生まれて来て戦場に死ぬこそ本望だ。春道も無事豊橋へ入校したそうだ、兄さんとは面会に行ったけど会へなかったとか残念だろう。家の方も父さん、母さん始め皆元気でやって居るらしい。牧野の輝ちゃんが先月(九月)二十日に結婚したそうだ、幸福な家庭を持つ様に祈って居る。
満州も雪が降って来ただろう
十分自重して身体を丈夫に頑張ってくれ

十月十六日

                    彰正 生
兄さんへ


遊就館の英霊の紹介ページへ
戻る






遺  書
        小紙元博命
        小樽市出身・昭和二十年五月四日
        沖縄にて弟春道命とともに戦死


  弟春道と○○戦線に出陣に当り

苛烈なる南さして共々に
  醜の御楯と今ぞ征でたつ

    昭和十九年七月十三日   元博作
  御両親様並御一同様

大層久しく御無沙汰しました申訳もございません
皆様共後増々御壮健の事と信じます。
元博も非常に元気で立派にやっているから御休心下さい
喜んで下さい愈々出陣であります
 待ちに待った時が来たのです大いに張切って醜の御楯と米英撃滅の戦争に直接参加します
 随分と永い間御両親様始め皆様に御迷惑をかけて参りました。然しながら現在の私の心境は真に澄んで何等未練がありません。私は立派に戦って桜の花と散り、彰正に続いて靖国の御社に永遠に生きる覚悟であります。
 お世話になりました。別れに当りまして、御両親様の御健摩と御多幸を衷心より御祈り申上げます。
では征きます。  さようなら
 節子よ後のことはよろしく頼みます。良く御両親様に仕へ弟妹を励ましてくれ。
 春道と逢へないが共々に同じ戦場で力を合せて戦うことの出来るのは嬉しい限りである、では頼みますぞ
 紀恵子、美恵子、典昭よ、何よりも身体を大切にして立派な人となれ。お前達は日本人であることの誇を飽くまでも忘れるな、そして女性はつゝましく、男子は強くあらねばならぬぞ、それでは永らく有り難う。
                                  さようなら
  昭和十九年七月十三日
                   元博 拝
皆様へ                          


戻る






遺  書
        森 稔命
        赤平市出身・人間魚雷画天に搭乗昭和二〇年
        一月一二日グァム島沖にて戦死・行年十九才

謹啓 兄上に一筆書き遺し候。
 日本男児として生を亭け君国の御楯として軽き一命を捧げ奉る之より快なるは候はず。唯々吾が全力を傾注して任務成就に突進致し敵をして再び起つ能はぎる如くせしめ、神国日本の底力と神州男児の意気を示さんと存じ候。
 この一事別段事祈らしき事に候はず唯十有九年間の御両親、恩師、兄弟、親族、先輩、知巳各位の御教訓をそのまゝ実行致すまでに御居候…壮途に就くに及び生来の愚生何一つ御恩に報ずる能はさりしは残念至極に存じ候へ
どもこの一挙により御恩の万分の一にも報ずるを得候は喜の極みに存し候…
 身を抵して君国に殉じ候事、日本人たる以上幼児すら真剣に考うる事に候へども愚生和づべき事に候へども其の如何なる事にて候や、しかと存し候はず、又悠久の大義に生き候とは文字の上にては充分存じ候へども其の真意を能し候はず、今日一大壮挙を前にして初めて其の一部分を存じ候、勿論その全部は到底解すべくも候はず、一大火柱と飛散致す寸前までも大義の二字を求めて自ら修め度く存じ候は最後の望と覚え候……   
 古人の言に花は散りてこそ花よと惜まれ候と御座候。咲くは栄華に似て精華に候はず、散りてこそ真の花と存じ候、命より名こそ惜しけれと言い候内はまだまだの事と存じ候君国の御為には名すら惜しまじとまで行き度き所にて候……
 現在皇国は、大難局に直面し居り国難を国民等しく声をからして叫び交し各々持場に全力を致し居ることゝ確信致し居り候へども未だ吾が国体の尊厳なるを自覚致し候はず徒に眼前の勝敗に拘泥し利欲に走り候輩多数居り候と聞き及び候は残念の極みに御座候……
 皇国に常に天佑候へども然しながら努力なき所、誠無き所、正しからぎる所には断じて有り得べきものに候はぎれば徒に天佑を頼みとするも又危き事に候                    
今生等決行目前にありて念願致し止まぎるは、

   天皇陛下萬歳
   大日本帝国萬歳  のみにて御座候

大日本帝国必勝を確信致し敵地に握り込む
小生等の奮戦振を在天の英霊も照覧し候へ

  大君の御楯となりて征かん身の
          心の内はたのしくぞある

                           稔
兄上様


回天特別攻撃隊のフラッシュへ
戻る






遺  書
        小野寺 英雄 命
        名寄市出身 昭和二十年五月十六日沖縄にて戦死
        行年十九歳


 過日は兄の応召出征ありて、弟の検査も見事甲種合格との事、大東亜決戦下の男子として此上なき栄誉なり・・・

武人の本懐これに過ぐるものなし…

兄弟の戦場は異るとも皇運扶翼のため身命を堵する忠誠には何等変る処なし、

今や祖国は決戦に全力を傾注しある秋、

吾熱血を持す青年将校とし最良の死所を得たるを悦びとす。

身を熱帯の地に席せんか、

或は南海の月下に白骨をさらさんか、

鳴呼吾死すとも尚祖国の英霊となり、

国家未来の永遠に生きん哉



昭和十九年六月二十日


戻る






遺  文  
        吉野 政雄命
        旭川市出身・昭和二十年七月二十九日
        ミンダナオ島にて戦死  二十九歳


御無沙汰致しました。青緑、褐色の大波を越え無事目的地に到着致しました。炎天下の変った人種を見異様な植物、雲の形態に遠い処に釆たことをつくずくと思はしめられます・・・
 現地人の片言交りの日本語を聴くにつけ大東亜建設の礎が着々と築かれて行くのを思ひ喜びに溢れると共に愈々責任の大なるを感じます。
繭美の「お父さん何処へ行った?」の声房代の抱いてとせがむ声が何時も頭に浮かんで参ります・・・写真を送って下さい。
では元気に・・・


戻る






遺  詠
        石井 広命
        沼田町出身・昭和二十年一月八日
        南西諸島にて戦死


尽くるなき生のさみしさいだきつ
   
     今日も対へり火をふく山に


秋風のしき降る広野石狩の

     水たゆたいつ光り流る


霜深き静寂の深山はらはらと

     舞うわくらばの音のかそけき


戻る






遺  書  
        高橋 義雄命
        北竜町出身・昭和二〇・三・二六日
        メレヨン島にて戦死  二十四才

前略
 「君の為見事に散れる桜花」此の文句は義雄が入隊以来演芸会或は会食等のある場合、上手でもないのですが雲月の物真似をして語った「この母を見よ」の最初の文句です。自分もこの一節の如く散る時が参りました。・・・
 まだまだ長く長く生き延びて思う存分御奉公致したいのは山々ですが運命です。・・・
 義雄は立派に陛下の御為に散り、靖国神社に行くことが出来るのです。
どうぞ家の皆々様もこれを最大名誉とお喜び下さい・・・
 二十四年の今まで慈愛深き父上母上そしておばあ様に育てられ家庭に在りて楽しく又入隊後も楽しい日を送って参りました。本当幸福な男子でした。
 父上様母上様が次第に老の年令に入り苦労されることゝ思いますが、光雄が代って十分親孝行してくれることでせう。・・・
 親類や近所の皆々様にも本当に感謝してゐます、どうぞ宜敷お伝へ下さい。
 皇国大日本帝国の益々栄えん事を祈りつゝおばあ様、父上様母上様の長命と幸福を祈りつゝ青き椰子の薬残る南島第一線にて遺書す
                                 義 雄
  天皇陛下萬歳
 昭和十九年五月八日十一時於「メレヨン島」          
   高橋鶴一様

光雄君へ
 よい少年になったでせう
 兄さんは大和魂を心に立派に戦死して行く光雄君も早くよい青年になって父さん、母さんに孝行してくれ。兵隊になって兄さんに負けずに忠義を尽してくれ
 それが兄さんの最上の望みだ、では元気で暮らせよ。

妹量子どのへ
留守中の分迄良く家の御手伝をしてくれたね、兄さんは感謝の念に涙して散って逝く
 もうよい娘になってゐるだらう。量子の花嫁姿を見たかった。良い所に縁付いて立派な一家の主婦になってくれ
他家へ行ってからも父さん母さんに尽くしてくれよ。
お友達の明星さんや久子ちゃんにも本当に感謝をして戦死したと伝へてくれ、随分便りも戴いた。
では何時までも達者で幸福に暮してくれ


戻る